本書は古代から今日の自爆テロに至るまでのさまざまな戦争を取り上げ,どのようにして戦争が始まったのか,戦争に至る経過はどうだったのか,どのようにして終戦を迎えたのかについて詳細に分析し,戦争の諸相から人類史を見直している力作である。
人類の歴史を振り返ると,戦争につぐ戦争だ。世界のどこでも戦争がなかった年なんて,有史以来どのくらいあったのだろうか。恐らく,数えるほどしかないはずだ。
なぜ戦争がなくならないのかについて,古来から多くの哲学者や歴史学者が議論を重ねてきたが,その謎はもちろん解明されていない。恐らく,人間の脳味噌の奥深いところに「破壊衝動」のような物があって,普段は「理性というタガ」で押さえられているのだろうと思う。そして,理性のタガがちょっとでも緩むと,一挙に破壊衝動がマグマのように吹き出すのではないだろうか。現実の社会を見ていると,つい,こんなことを想像してしまう。戦争というのが特殊な異常事態なのか,それとも人類の歴史の中で普遍的常態なのか,なんだか判らなくなってくる。
思い起こせば,人類はいろいろな口実を見つけては戦争をしてきた。「あいつらが食べ物を独占しているから俺たちは腹ぺこなんだ」という理由で戦争を仕掛け,「あいつらが肥えた土地を独占しているのはおかしい」と思えば戦争を仕掛けてきた。
だが,これらの理由による戦争では,いきなり戦いになることはない。話し合いで妥協点が見つかれば戦いは回避できるからだ。その話し合いのことを「外交」と呼ぶ。要するに,外交とは武力を用いない戦争である。そして,外交で決着がどうしてもつかず,お互いに引くに引けない状況になったとき,武力行使が行われ,それが戦争である。
このような戦争の特徴は,お互いに「引きどころ」,「落としどころ」があった点にある。自分たちの主張が100%通ることがないことを知っている上で相手に要求を突き付けているからだ。要するに陣取りゲームであり,ゲーム感覚である。だから,相手が要求をのめば殺す必要はないし,戦争が終われば「お隣さん同士」の関係に戻っていく。相手を殺すことが目的でない戦争の特徴である。
このような戦争観は,日本の戦国時代,中世のヨーロッパでの戦争でも同様だったらしい。戦場と定めたところに両者が期日を決めて集合し,ルールに則った開戦宣言があり,戦場で守るべきルールがあり,お互いの豪傑同士の技の披露があり,それから合戦を開始した。原則的に戦いに参加するのは貴族だったり傭兵であり,近隣住民たちは手弁当持参で戦場見物に興じた。今日の戦争から見れば,まさに牧歌的戦争風景である。
またこの時代の戦争には必ず中立国(中立勢力)があり,途中でお互いの仲裁に入った。それで漁夫の利を得る国もあったが,一面では,戦争が必要以上に拡大するのを抑止していたらしい。
このような牧歌的様相が一変したのが,宗教戦争だ。つまり,中世の十字軍である。宗教戦争は「自分の信じる神のため」の戦いである。神にしろ宗教の教えにしろ,唯一無二のものであり,絶対に譲れない一線である。
宗教戦争にあっては「神を信じる側か,信じない側か」の二つの立場しかない。中立的立場を許さないのが宗教だからだ。だからそれで戦争になると妥協点はあり得ないし,その神を信じない連中は絶対悪であり,そういう連中を殺すことはむしろ神の御心に適う行為となる。
自分たちが神のために戦っていると意識したとき,最も残虐な行為が可能になる。神を信じない街を赤ん坊から家畜に至るまで灼き殺したり,住民全体の首をはねてピラミッドにして勝利の雄たけびをあげたり,女子供全員を奴隷として売り払ったり,その地域が二度と再生しないように土地に大量の塩を撒いたり,井戸という井戸に毒を投げ込んだり,ありとあらゆる残酷な行為が神の御名の下に行われた。
妥協点のない戦争とはかくも苛烈になる。神に祝福された戦争においてサディズムは最高度に発揮される。
第二次大戦(ちなみに本書の著者は「第二次欧州戦争」と呼んでいる)とは何だったのか。それは形を変えた宗教戦争だったと本書の著者は看破する。20世紀の神は「民主主義,共産主義」である。「民主主義を守るため」に,「共産主義を世界に広めるため」に,ルーズベルトとスターリンはいかにしたら戦争が始められるかを考え,策をめぐらした。
もちろんこれは「神を守るための,神の教えを広めるための」戦争だから,妥協と言うことは初めからあり得ないし,中立と言うこともあり得ない。「旗幟鮮明にせよ」と神は命ずるからだ。
ルーズベルトがドイツと日本に「無条件降伏」を要求し,それ以外の終戦はあり得ないと言い続けたのも,それが神のための戦いだったからだろう。神を信じない連中は地球上から抹殺すべきだし,殲滅することを神が望んでいるはずだ。
しかし,無条件降伏しか選択肢がなくなったとき,それを突き付けられた国民は「死ぬまで戦う,死んでも戦う」しかなくなる。降伏しても皆殺しにされるか奴隷にされるだけだからだ。
かくして,相手の国の国民を絶滅するために無差別爆撃が行われ,無条件降伏を突きつけられた側は自暴自棄になり,徹底抗戦するという凄惨な状況に追い込まれた。
第二次欧州戦争の死者だけで3500万人(これはナポレオン戦争以降のあらゆる戦争の死者の合計を遙かに超える)という未曾有の惨事を招いたが,なんとその中で非戦闘員の死者は1500万人だったのだ。従来の戦争では,「非戦闘員は殺さない」という暗黙の了解があったが,宗教戦争では「その国の国民である」ということで殺す理由は十分なのだ。そして,大量の非戦闘員が大量虐殺された。
戦争は悲惨なものだが,一面で,新しい世界・秩序を造る原動力になってきたのも事実だった。
例えば,旧体制で不遇をかこっていた不満勢力が反乱を起こして起きた戦争がそうだ。その結果として旧体制が勝つ場合もあれば,新勢力が勝つこともあるが,いずれにしても,その戦争後も旧体制が権力を持ち続けることは難しくなり,大概の場合は新しい体制が生まれ,新しい秩序の元に社会が変わり,歴史が動いていく。戦争にはそういう効用もあった。
では,第二次欧州戦争は何を生み出したのか,第二次欧州戦争は終結後,どんな新しい世界を創造したのか,と本書の著者は問う。彼によれば,何一つとして新しい秩序を生み出していないという。
「悪いのは敗者で,戦争の責任は全て敗者にある。我々が勝利したのは,我々の立場(=神)が正しかったからだ」というアメリカとソビエトによる戦後処理の仕方は結局,ドイツにすべての責任を押し付けた第一次欧州戦争の戦後処理と全く同じ構図なのである。
第一次欧州戦争の戦後処理がやがて第二次欧州大戦の原因となったように,第二次欧州戦争の戦後処理,すなわち民主主義(あるいは共産主義)が正しかったから勝ったのだ,という戦後体制は結局,その後の両勢力の冷戦と代理戦争,そして各地で頻発する民族紛争,宗教紛争を引き起こしただけではなかったのか,と著者は厳しく糾弾する。
この点で,大東亜戦争には歴史的な意義があった,と著者は指摘する。大東亜戦争が生み出したもの,それは白人による世界分割と植民地支配の終結である。実際,この戦争以後,少なくともアジアでは白人の植民地から白人勢力が撤退し,次々と独立国が誕生したのは事実である。この戦争が始まった1930年代,アジアの独立国はいくつあったろうか。名実ともに独立国と呼べたのは片手で数えられるくらいしかなかったはずだ。
大東亜戦争とは何だったのか。これについての日本と韓国,日本と中国の間の解釈の違いが政治問題になっている。その象徴が靖国問題だろう。この問題について本書では次のように述べている。
大東亜戦争は日本の側から言えば明らかに自衛戦争である。しかし中国の側から言えばやはり明らかに侵略戦争だろう。それだけのことである。いくら双方の学者が集まって事実をつき合わせてみても,事実そのものが複雑多岐であり,そのうえ双方の解釈が加わらざるを得ないのだから,この論争は双方の立場の違いを明らかにし,双方の近未来の付き合い方に役に立てばよし,とすることで幕を引くほかないのである。実に単純明快である。アメリカのフロンティア拡大も,白人側からすれば生活の場を求めての活動だったかもしれないし,ネイティブ・アメリカン側からすると明白な侵略であり民族浄化である。両者の立場が一致することは未来永劫ないだろうし,白人がアメリカに移住する前の状態に戻すこともできない。
戦争が人間の精神の奥深くに根付いたものであり,歴史の中で戦争の発生が不可避であるならば,せめてその戦争は新しい秩序を生み出すものであって欲しいし,新たな価値観を創造する原動力になって欲しい。そうでなければ,戦争の犠牲者は浮かばれない。
(2006/02/24)