《マーラー》(1974年,イギリス)


 作曲家マーラーの伝記映画であるが,伝記と言っても彼の生涯を忠実に再現している映画ではなく,作曲家,指揮者として名声を確立したマーラーが,移動中の列車の個室で見た夢,過去の回想などの場面が順不同で再現されるため,ある程度マーラーについて知っていないと理解しにくい。映画というよりは映像詩に近く,心象風景みたいなのが延々と続く場面も多い。

 それぞれのシーンの映像は非常に美しいし,映像とマーラーの曲のマッチングはほぼ完璧だ。というか,マーラーの曲に合わせて映像を作ったのだろうから,よくマッチしているのは当たり前かな?

 とはいえ,正直なところ,よほどのマーラーのファンでなければ,この映画を最後まで見るのかなり辛いものがあると思う。マーラーの音楽への思い入れが絶対条件である。その意味では「観客を選ぶ映画」だと思う。


 音楽家として成功するために,ワグナー夫人のコジマに取り入るエピソードも非常に面白いのだが(「ワルキューレの騎行」を二人が唱うシーンは笑えるが),当時の音楽業界におけるワグナーとコジマの影響力について知らないと,何がなんだか判らないのではないだろうか。このあたりは,映画としては非常に不親切だと思う。

 また,マーラーの妻のアルマの描き方も彼女の一面しか伝えていない。アルマは大物食いというか,真の天才を見抜く才能を持っている最高度の知性と芸術的感性を持っていた女性だったと思う。その意味で,この映画の中のアルマの描かれ方は「単なる美貌の女性」であり,不満が残る。
 ちなみに,アルマがおつき合いしたことがある男性を列記すると,19世紀末から20世紀初頭のあらゆる分野の第一線級の天才の名前が並ぶのだ。画家のクリムト,作曲家のツェムリンスキー,建築家のグロピウス,画家のココシュカ・・・。まさに,世紀末の天才が綺羅星の如く並んでいる。


 それにしても,『亡き子を偲ぶ歌』の作曲にからむエピソードも凄まじいものがある。作曲当時,彼には2人の幼い娘がいた。もちろん,「亡き子」の歌詞は詩人が書いたものであり,彼はそれにメロディーを付けただけだ。
 しかし,彼の妻はそれに不吉なものを感じ,なぜこんな曲を書いたのかと詰問する。その時,マーラーは「私が音楽を選ぶのではない。音楽が私を選んだのだ」と言い返す。まさにこれこそが,音楽の魔性にとりつかれた者の業なのだろうが,その数年後に娘の一人が亡くなってしまうのである。もちろん,『亡き子を偲ぶ歌』という曲を書いたことと,彼の娘の死は全く無関係なのだが,幼い子供を持つ人間が,死んだ子供を弔い,その子の在りし日を思いおこす歌を作曲するというのは,一般的な感情からいえば理解しがたい(あるいは,許し難い)ものがあるのは事実だろう。


 作曲家の生涯を描いた映画といえば,モーツァルトとサリエリの確執を軸に,モーツァルトの生涯と作品を余すことなく描き尽くした『アマデウス』の方がはるかに面白いし,神経症的なマーラーよりは,脳天気で無邪気なモーツァルトの方が見ていて楽しい。何より,『アマデウス』の作者(監督)のモーツァルトへの愛情がひしひしと感じられるのがいい。そういう愛があるから,『アマデウス』は卑俗でありながら神々しい。

 と,ここまで書いて気になったのだが,この『マーラー』の映画監督はマーラーの音楽が好きでこの映画を作ったのだろうか。もしかしたら,マーラーの音楽は単なる素材に過ぎず,耽美的な映像を作るためにマーラーの音楽を利用しただけではないか,という気がしてならないのである。

 もっと言うと,この映画を作った人は音楽に酔っているのでなく,自分の映像に陶酔しきっているだけではないかと思う。

(2006/02/13)

 

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