「クレヨンしんちゃん モーレツ! オトナ帝国の逆襲」
 見てしまいました・・・映画「クレヨンしんちゃん モーレツ! オトナ帝国の逆襲」。もちろん子供のお供です。
 で,どうだったか。泣けてきました。不覚にも泣いてしまいました。感動しました。子供や孫がいる人だったら,恐らく間違いなく涙を流すことでしょう。私,最初から最後まで立ち見で見ましたが,隣に立っていた白髪まじりのおじさん(というかおじいちゃんかな?)も目頭をおさえていたようですし,その隣のおばさんも涙を拭いていたようです。  恐らく,この映画館にいた大人はほとんど,子供(孫)のお供として来ていたはずです。「しょうもねえよね,あのお下品なクレヨンしんちゃんなんて・・・」と思って,映画館に入ったはずです。でも,そのほとんどの大人は,この映画に感動したはずです。たかが子供向けのアニメに感動し,涙を流している自分にびっくりしたはずです。
 その意味でも,このアニメは大人の鑑賞にも堪える作品として仕上がっています。

 私,自慢じゃありませんが,「クレヨンしんちゃん」のアニメは第1作目「ハイグレ大魔王」を含めほとんど,映画館で見ています。もちろん,子供受けを狙ったあざといお下品なギャグが満載のアニメであり,毎回,おネエ言葉を使うオカマ(・・・実はこういうのが一番凶暴なキャラだったりする)が登場するなど,決して子供に見せたいアニメではないと思います(この点が「子供に見せても安心」なドラえもんやポケモンと違う)。
 しかし,そのテーマは意外にも極めて真面目です。メインテーマは親子の愛情であり夫婦の愛情であり,家族の団結です。これは第1作目から一貫しています。
 むしろ,こういう「青臭い」テーマに作者自身が照れ,そういう「照れ」を悟られまいとして,あのお下品ギャグを連発させたり,オカマ・キャラを登場させたのではないか,とすら思われます。
 確か「電撃! ブタのひづめ大作戦」だったと思いますが,生活のすれ違いから離婚することになった秘密工作員の夫@元と妻@元(子供を連れている)が絶体絶命の場面で再開する場面がありました。そこで,どうしても勝ち目のない強力な相手と戦う羽目になったとき,その敵に単身立ち向かおうとする夫@元は,妻@元に言うんですね。「もしも,俺が生きて帰れたら,一目でいいから子供に会わせてくれ」って・・・。
 「クレヨンしんちゃん」の映画には,必ずこんなシーン,こんなセリフが見つかるはずです。

 さて,今回の「オトナ帝国の逆襲」は第9作に当たるそうですが,これまでの8つの映画と一線を画しているようです(・・・全てを見ているわけじゃないけどね)。
 まず,このシリーズの定番だった「お下劣ギャグ」がほとんどありません。「ウンチ・オシッコ・お尻」などの,子供に受けようというあざとさがかなり後退しています。
 そして,このシリーズに必ず登場していた「オカマ・キャラ」が全く登場しないのです。
 加えて,ストーリー,あるいは雰囲気を重視した場面では,その雰囲気を壊すようなギャグの要素を全く入れず,敢えて,「ここで子供たちが少々飽きてしまって,しょうがない」と開き直っているかのようです。
 そして,そのかわり,ギャグの場面は短期集中型に「息もつかさぬ」ギャグの連続としています(ほとんど,ジェットコースター級のギャグの連続!)。つまり,非常にメリハリのある構成になっています。
 ギャグはほとんど,二つの場面に集中していました。一つは,洗脳されたオトナたちが「子供狩り」をする中,「しんのすけ」とその仲間達が逃げるシーン。オトナの目から逃れるために,八百屋の野菜に化けたり,本屋の本に化けたりするシーン。細かいギャグが満載で,もう一度じっくり見てみたい。
 そしてもう一つが,幼稚園バスに乗り込んだ「しんのすけ」達が,オトナたちの運転する車とカーチェイスをするシーン。普段はボーっとしている「ぼーちゃん」が「僕,運転できるかもしれない」というのも格好良かったし,普段は目立たないキャラの「まさおくん」が,いきなり暴走ファイターとして目覚めるのも大笑い。良い子キャラの「かざまくん」が敵とカーチェイスをしているのに,「制限速度40キロを守らなきゃ」っていうのも良かったな。しんちゃんに一言「かざまくん,制限速度を守っているけど,無免許運転だよ」って言われて,愕然としちゃうの。これには,場内,大笑いでした。

 さて,今回の「しんちゃん」映画は,1970年代,つまり,「大阪万博」で沸き立っていた時代をテーマにしています。あの「古き良き1970年代」に世界中を引き戻そうと画策する二人組みの男女が悪役です。この二人(「ケンとチャコ」だってさ)は「同棲時代」そのままに同棲しているんだけど(「同棲時代」を知っている人には,説明不要のシチュエーションだね),彼らが理想としている四畳半の部屋(足踏みミシンがあるんだよ)から見える町並みが,もうおじさんたちには感涙もの。
 あの頃の町にあった「匂い」が,映画の画面から立ち上ってきます。

 そうそう,あの頃は塾なんて行かず,夕暮れまでメンコや缶蹴りで遊びまわっていたんだ。家に帰ると台所からカレーライス(小麦粉が溶けずに表面に浮いていたっけ)の匂いが漂っていたんだ。
 そういう,21世紀が忘れてしまった「街の匂い」を取り戻すべく,「同棲」している二人が立ち上がったわけです。そのために,この時代にノスタルジーを感じる「オトナ」に「1970年代の匂い」を嗅がせ,洗脳しちゃったわけだ。

 この「懐かしい」匂いに虜になった「ひろしとみさえ(もちろん,しんちゃんの両親)」を現実に引き戻すには,「現実」の匂いを嗅がせ,目覚めさせるしかない。そう思った「しんちゃん」は「ひろし」に,ひろしの強烈な「靴の匂い」を嗅がせる。そう,「とうちゃんの靴(靴下)」は強烈に臭いんだ。

 「1970年代の懐かしい匂い」ですっかり子供時代に返っていた「ひろし」だが,「自分の臭い靴の匂い」で次第に我を取り戻す。ここからの「ひろし」の回想シーンは涙なしには見られない。このシーンのために「白眉」をいう言葉を使っても惜しくない。それにふさわしいシーンだ。

 「ひろし」は父親の自転車の荷台に乗っている姿を思い出す。父(銀之助という名前だったはず)と一緒に,始めて釣りに行った日の思い出だ。
 次に「ひろし」は,自転車に乗り中学校に通学。
 初めて女子生徒と一緒に帰った日の甘酸っぱい思い出。でも,「ひろし」はほどなく,うつむいて「一人通学」の日々を送ることになる。そう,最初の失恋。
 そして,上野駅への上京(そういえば,銀之助じいちゃんは秋田県に住んでいるという設定でしたね)。
 会社勤めをし,汗をかきながらの外勤。
 上司に怒られ,同僚に慰めらる居酒屋。
 「みさえ」との初デート。
 産婦人科医院に駆けつける「ひろし」。病室に行くと「みさえ」が赤ん坊(=しんのすけ)を抱き,赤ん坊は元気に泣いている。
 そして,自分が乗る自転車の後ろに,「しんのすけ」を乗せ,釣りに行くシーン。
 炎天下,汗を拭きながらお得意様廻りをしているシーン。


 ここで「ひろし」は目覚める。
 自分はこの子供たちと一緒に生きている。「みさえ」と生きている。この「靴の匂い」は自分の勲章だ。「臭い靴下」は自分の証だ。
 そして,「ひろしとみさえ」は,「子供たちと一緒に生きて行く21世紀」のために,過去のノスタルジーを捨て,立ち上がる。立ちはだかる敵たちを前に,「しんのすけ」一家は宣戦布告する。「俺たちは,未来のためにお前たちと戦う」・・・と。

 敵の策略を打ち砕くため,テレビ塔の階段を駆け上る「野原一家」。下からは追いかけてくる敵の集団。
 最初に「ひろし」がつかまる。次に,「みさえ」がつかまる。だが,二人とも,全てを「しんちゃん」に託すために,時間稼ぎのためにつかまったのだ。あの,底知れぬ「お馬鹿パワー」をもつ幼稚園児に,全ての可能性を託して・・・。
 「しんちゃん」は残りの階段を駆け続ける。何度も転び,何度も転倒し,顔面血だらけになりながら,それでも「しんちゃん」は階段を昇り続ける。
 階段を最後まで上り詰めた「しんちゃん」の前には,しかし,あの「悪役二人組」が立ちはだかっていた・・・・。

 この映画,随所に1960年から70年代の風景を取り入れ,当時のテレビ番組,コマーシャルを取り入れ,当時の社会情勢を随所に取り入れている。あの頃を経験していない世代には,チンプンカンプンじゃないだろうか。「子供向け」アニメとしては,間違いなく暴挙といって良いだろうと思う。
 事実,この「しんちゃん」シリーズがターゲットとしてきたのは「お子ちゃま」だったはずだ。そのため,あざとい「下ネタギャグ」を連発し,「オカマ」を必ず登場させてきたのだろう。それは反面,「子供なんてこういうギャグで十分」という,作者側の思い上がりにも通じていたと思う。

 しかし,この第9作目は,以前の作品とは明らかに違っていた。最初から,大人の観客も相手にしていた。この客層を掴むための,最善の映像を作り上げていた。
 しかも,子供も飽きさせない工夫も随所に盛り込んでいた。
 その結果,子供の大人も,それぞれ,満足できる作品になった。

 こんないい映画を「子供たち」に独占させておくのはもったいない。あの時代を知っている人なら,必ず何かを思い出させてくれる。

(2001/05/01)

 

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