プリオンを知らない医療関係者はいないだろう。ご存じ,狂牛病の病原体とされている蛋白質だ。医学の常識を覆す「蛋白質病原体説」を提唱し,それを示すデータを次々に提示したプルシナーがノーベル医学賞を受賞したこともあり,現在,この説は疑う余地のない物と考えられている。
しかし,本書の著者(分子生物学の研究者であり,自身もこの疾患について研究している)は,「狂牛病(より一般的に言えばスポンジ状脳症)の原因をプリオンとするのはデータには読み間違いであり,プリオンという概念で説明する必要はない」と批判するのである。相手は何しろノーベル賞である。ノーベル賞が間違っている,と批判しているのである。
本書のあとがきにも書かれているが,この著者が一番最初にプリオン説がおかしいと思ったのは,大学院生の頃だったという。「不溶性の凝集蛋白質が経口的に体内に入った後,消化を免れるというのはいいとしても,消化管を突破し,抹消リンパ組織で増殖してから全身に広がり,最後は脳血液関門を超えて脳に進入して大増殖する」というストーリーが,あまりにもできすぎているからだ。オイオイ,それは本当か,と思ったそうだ。このような直感は大事だと思う。
スポンジ状脳症(クロイツフェルト・ヤコブ病,狂牛病,羊のスクレイピーなど)の特徴は,明らかに伝染する疾患なのに病原体が見つからず,宿主側の免疫反応も起こらず,しかも発症した患者(患畜)の脳には感染性があり,その感染力は蛋白分解酵素や薬剤で処理をしても失われない,と言う恐るべき性質にあった。つまり,通常の細菌やウイルスでは考えられない性質だ。
プルシナーは患畜の脳に通常では見られない異常な蛋白質の蓄積があることを見いだし,これを病原体そのものだと主張した。かれがこの異常型プリオン蛋白質が病原体だとする論拠は次の通りである。
以上である。これらを読んで「それは正しそうだな」と思うだろうか,それとも「ちょっと待てよ」と思うだろうか。
私はおかしいと思った。病変部に異常蛋白質があったとしても,それが病気の原因とは言えないからだ。「異常蛋白質が蓄積して病気になった」のか,「病気になったから異常蛋白質が蓄積した」のか,両方の可能性があるからだ。要するに,「原因」か「結果」かである。火元なのか,燃えカスなのかでは全く違うのである。
実はプルシナーは異常型プリオン蛋白質が病原体そのものであることの直接証明はできていない。彼と彼を支持するグループが提出しているデータはすべて状況証拠である。試験管内で感染性を持つ異常型プリオン蛋白質を作り出すことには,誰一人として成功しておらず,プルシナー自身も病原体の単離精製には失敗している(2005年10月の時点で)。
この病気を発症した動物の脳のホモジネートを実験動物の脳に注入するとスポンジ状脳症を発症させることができ,これがプリオン説の根拠の一つとなっている。その病原性物質をトレースした実験によると,病原性物質は注入された脳から移動して脾臓や唾液腺,リンパ節に移動して増殖し,その後時間をおいてから,再び脳に戻ってくる。
プリオンは正常な細胞の細胞膜表面にある蛋白質である。プルシナーらは異常型プリオンが経口的に体内に入り,それが脳に達して正常型プリオンに結合することで,正常型プリオンが次々に異常型プリオンに変化し,それが脳症を起こす原因になっていると説明している。
ところが,試験管内に正常型と異常型プリオン蛋白質を混ぜても変化は起きないのである。異常型に転換させようとすると,大量に異常型プリオンを混入し,さらにいろいろな極端な環境にして初めて,正常型から異常型にごく少量だが変化するらしい。これでは状況証拠にしてもかなり苦しいと思う。要するに,異常型プリオン蛋白質が原因で正常型プリオンを異常型に変えているという明白なデータが得られていないのだ。
さらに,化学的に考えてみると,蛋白質の立体構造が変化するためには外部からのエネルギーが必要である。生体内の蛋白質はエネルギー的にもっとも安定した構造を取っているからだ。そこから別の形にするためには,水素結合などをいったん切り離す必要があるが,それに見合うエネルギーがどこからか供給されなければ反応は起こらないのだ。このエネルギー源については全く言及されていないらしい。
このような疑問が出されるたびに,プリオン派は「実はこうなっているのだ」と新しい仮説を提案して,批判をかわしているらしい。つまり,疑問が出るたびに新しいロジックが追加されているらしく,プリオン説はますます複雑怪奇になっているのが現状らしい。
科学は本来,一つの原理で様々な現象を一元的に説明するものである。その原理はシンプルであればあるほどいい。逆に,新たな事実が判るたびに,原理に尾ひれをつけて拡大解釈が必要になったら,たいていはその原理自体が間違っているものだ。
そのいい例は天動説だ。天動説はまず地球を宇宙の中心におく。神は世界の中心にいるが,太陽が中心だと神が焼け死んでしまうではないか,というのがその理由らしい。恒星の動きを見ている分には天動説は万全だ。しかし,水星や金星などの惑星の動きを説明するのが難しくなる。ふらふらと天球を動き回っているからだ。
そこで天文学者はどうしたか。地球の周りを惑星が回っているが,その軌道上で螺旋を描くように運動している,と考えたのだ。こうすると確かに,惑星の動きは説明できるようになった。しかし,観測精度が上がってくると,その螺旋でも説明できない動きが見つかってしまう。新たな事実が判明するたびに,宇宙はどんどん複雑になっていった。コペルニクス前夜の天動説では,地球を中心に複雑怪奇な円盤が幾つもあり,その円盤上を惑星や衛星がさらに複雑怪奇な螺旋を描きながら動いていたのである。
コペルニクスはこれを醜いと感じた。神が作った宇宙が,そんなに複雑怪奇のわけがない。神が作ったものは美しいはずだと考えた。そこで彼は,太陽が中心で知友はその周りを回っていると考えた。そうすると,神様が火傷しないかという心配はあるが,宇宙の構造は実にシンプルになる。太陽を中心に同心円があるだけで,それで惑星のおかしな動きは一気に説明できる。
プリオン説を示すデータとその解釈はかなり複雑である。まさに天動説そっくりである。プリオンが病原体だと最初に設定してしまったから,説明がどんどん複雑になってしまったのではないだろうか。
また,プルシナーが行った実験系はどれも複雑だ。単離精製した異常型プリオン蛋白質を経口投与したらスポンジ状脳症が発症しました,なんて単純明快な実験は一つもない。松本から新宿に行くのには「あずさ」に乗るだけなのに,なぜかわざわざ松本空港から千歳に向かい,千歳から中部国際空港に移動し,そこから名古屋駅に向かって新幹線に乗り,品川で降りて山手線に乗り,ようやく新宿へ・・・というような実験ばかりで,単純明快な実験系は一つもないという。これも常識的に考えると,かなり変だ。
プルシナー研究室以外での再現性が認められていない実験もあり,彼の研究室自体がスポンジ状脳症病原体に汚染されているのではないか,という指摘もあるそうだ。
そして,プリオン説の最大の根拠とされる実験のグラフそのものにも疑惑の目が向けられるのだ。恐らくこの部分が,本書の白眉ではないだろうか。
プルシナーは蛋白分解酵素で脳ホモジネートを処理すると,異常型プリオン蛋白質の減少と感染性の減少が同時に進む,というデータを提示していて,これこそが異常型プリオン蛋白質が病原体であることの証明とされている。確かにこの二つのグラフは見事に重なっている。
ところがこのグラフには非常に奇妙な点があるのだと言う。グラフの横軸である時間軸が対数になっているのだ。
実際,プルシナーのグラフの横軸は101分,102分,103分となっている。つまり,10分,100分,1000分が等間隔に置かれているのだ。1000分と言えば17時間ほどである。10分,1時間半,17時間を等間隔に目盛るなんて聞いたことがない。これは要するに,人の一生をグラフにした時に,生まれて一年目までと,その後の10年,その後の100年を等間隔にプロットするようなものである。時間を対数で表示するのは,宇宙開闢のビックバン直後くらいのものじゃないだろうか。
そして本書の著者はプルシナーの提示したデータをもとに,グラフの横軸の時間を通常通りにしてみたところ,二つのグラフは重なるどころでなく,全く離れてしまう。つまり,異常型プリオン蛋白質は蛋白分解酵素で速やかに分解されるのに対し,感染力価(=病原体)はこの酵素で分解に抵抗し,分解に倍の時間がかかっていることを示しているのである。
おまけに,プルシナーの論文には,なぜここで時間軸を対数表示にしたかという理由は書かれていない。うがった見方かもしれないが,異常型プリオンを病原体にするために,何とか二つのグラフを重ねようとして試行錯誤し,時間軸を対数にすると両者が重なることを見いだしたのだろう。考えてみると判るが,時間軸を対数にすると,2時間も10時間も同じになってしまう。速やかな反応と遅い反応の差が,グラフから消えてしまう。ことの真偽はプルシナーの原論文にあたってみるしかないが,時間軸が対数であるとすれば,このデータはほとんど眉唾だと言うことになる。
また,病原体のサイズが既知のあらゆるウイルスよりも小さいという指摘も,最新のデータで再検定すると,ウイルスサイズになるらしい。
同様に,マウスへの脳ホモジネート移植を繰り返すと,次第に潜伏期の短縮が見られるという現象も,ウイルスが病原体なら簡単に説明できるが,単なる物質に過ぎないプリオン蛋白質でそれを説明するには,異常型プリオンには立体構造が異なる物が幾つもあり,それが進化論的に選択されている,という新たな前提が必要となる。プリオンを病原体とすればするほど,事態は複雑化の一途である。
それでは,スポンジ状脳症の病原体は何なのか。本書の著者は未知のウイルスだと考えている。餌などに含まれるウイルスが回腸などから入り込み,それがB-cell表面のプリオン蛋白質に結合して胸腺や脾臓などで増殖し,潜伏期間を経て中枢神経に攻撃を開始し,変性に陥った脳組織は異常型プリオン蛋白質という燃えカスを残して死んでしまう,という筋書きである。つまり,正常型プリオン蛋白質はこのウイルスのレセプターとなっているわけだ。ターゲット細胞が免疫細胞なら,免疫反応が起きないことも容易に説明できるし,その他の現象も一元的に説明できる。どこにも不自然さはない。
もちろんこの説にも,ウイルスが見つかっていないと言う弱みはあるが,C型肝炎のウイルスそのものはまだ見つかっていないのである。
もしも本書の主張するウイルス説が正しいとすれば,アメリカからの牛肉輸入再開はかなり危ないことになる。輸入再開の条件として,脳や脊髄などの危険部位を全て除去すると言うことがあるからだ。これはもちろん,狂牛病の病原体が脳や脊髄などにしか存在しないことが前提となっている。
しかし,上述のように,狂牛病の病原体は最初は胸腺などの末梢組織で増殖し,その後,中枢神経系に進入していることはほぼ確実とされている。要するに,脳味噌と脊髄だけ処理しても意味がなく,このような牛肉を食べて感染しないと言う保障はどこにもないのだ。
本書が展開するプリオン説への批判が正当なものであるかどうかは,将来明らかになるだろうが,著者の研究者としての真摯な態度,批判的論文の読み方は非常に参考になった。同時に,オリジナルの論文にあたって見ることの重要性も教えてくれると思う。
(2005/12/07)