この本は基本的にいい本だと思う。内容は極めてまっとうである。しかし,欠点が一つだけある。タイトルがひどすぎる。なぜなら,本書のどこにも「英語を学べばバカになる」とは書かれていないからだ。「英語だけ学べばいいと考えるようなバカになるな」と書かれているだけだ。恐らく,このタイトルだけで「どうせキワモノだろうな」とか,「なんだか胡散臭い本だな」と敬遠する人がいるはずだ。これはタイトルでかなり損をしている本ではないだろうか。
さて,本書では何を主張しているのか。幾つかあるが,それをまとめると次のようになる。
日本ではここ数年,英語の早期教育の必要性が声高に主張され,実際に幼稚園や小学校から「生きた英会話教育」が導入されている。幼児期から英米人の生の英語を聞かせれば,自然に英語がペラペラ喋れるようになり,国際感覚豊かな子供に育つだろう,というのがその根拠だ。だがそれは嘘である。
私は中学校,高校と真面目に英語の授業を受けてきた。英語のカセット教材を使っていた時期もある。だが,全く英会話はできなかった。英会話が日常生活で必要なかったからだ。秋田という日本の辺境で育ったせいもあるが,身の回りに英語を話す友達はいなかったし,店で買い物をする時にも英語は必要なかったし,電車に乗るにも英語は必要なかったのだ。だから,英語会話の必要性はなく,全く喋れないまま医者になった。
医者になるとどうしても英語の論文を読まなければ生きていけない。だから,英語の論文は必要に駆られて読めるようになり,抄録程度だったら英語で書けるようになった。しかし,以前として英会話の必要性だけはなかった。
これは英語に限った話でなく,他の分野でも同じである。例えば私は数学が好きで,今でも数学関連の本をよく読むが,だからといって三角関数の計算はできないし,微積分も同様だ。あれほど得意だった物理だって,高校程度の力学の問題も解けなくないはずだ。なぜなら,それらの知識は私の生活に必要ないからである。三角関数も電磁気学も必要ないから忘れただけの話である。これは英語も同じだ。人間の脳味噌というやつは,日常的に使わない知識をすぐに忘れるようにできている。使わない知識を記憶しておくためには,膨大な努力が必要なのだ。
英米人が英語がペラペラなのは,英語が喋れないと生きていけないからだ。だから彼らは日常的に使い,喋れるようになる。それは私が日本語会話ができるのと同じ。つまり,英語ができることと個人の能力はまったく関係ない。日本語が喋れる日本人にもお利口さんとおバカさんがいるように,英会話ができるアメリカ人にもお利口さんとおバカさんがいる。だから,英語が喋れるようになっても愚者は愚者のままだし,英語が喋れなくても賢者は賢者である。
そして何より,英語が話せようとギリシャ語が話せようとエスペラント語がペラペラだろうと,表現したいものが頭に浮かばなければ英語が堪能でも話しようがない。母国語で表現する以上のことを外国語で表現することは不可能である。それだったら,英語を教える前に日本語で考えをしっかりと表現できるようにする教育をすべきである。
現在の日本では,外国語といえば英語であり,英語=外国語である。以前,大学院に入るためには2ヶ国語の試験があったが,今では1ヶ国語のみであり,全員,申し合わせたように英語を選んでいる。NHKの外国語講座でも英語のみが突出しているし,街を歩けば英会話教室は雨後のタケノコのように見つかるが,フランス語教室もロシア語教室もまず見つからない。これは,日本が「英語こそが世界の公用語」と考えているからだ。
ところが,これは正しくないらしい。例えば国連公用語は英語ではない。国連公用語といえばフランス語,中国語,ロシア語,アラビア語,スペイン語,そして英語である。決して,英語が特別の地位にあるわけでもない。日本国内と欧米しか知らなければ,英語さえできれば世界中の人とコミュニケーションできそうに考えてしまうが,それは事実ではないらしい。
現在,EUで使われている公用語はなんと20である。だから一つの法令ができるたびに,20の言語に翻訳することになる。なんとも非効率に見えるが,効率を求めて一つの言語にまとめるのでなく,お互いの文化を認め合い,相手を尊重するからこそ,それぞれの言語を大事にするのだという。こういう考えの方が健全だし,大人の知恵だと思う。戦乱が続いたヨーロッパの知恵である。
そして,英語だけを特別視し,アメリカのみに追従することは非常に危険なのである。先に「生物多様性」「文化多様性」という概念を紹介したが,外交においても教育においても,「多様性」を否定することは,何かが起きた時に逃げ場がなくなるということになるからだ。「アメリカこけたら日本もこけた」では困るのである。
現在の日本に入ってくる国際情報はアメリカ発のものに偏っている。だからどうしても,アメリカの姿が巨大に見えてしまうし,唯一正しいのはアメリカの考えに思えてしまう。しかし,アメリカの現実の姿(先のハリケーン「カトリーナ」で明らかになった)を見ると,なんとも頼りなく見えてしまう。
例えば,アメリカの名目GDPは世界一で,第2位の日本の倍以上である。数字だけ見ていると立派なものだが,これは株式投資が生み出したもので,いわば紙の上の操作ではないかといわれている。本書ではその様子を「借金をして株を買い,その株で儲けて生活費と借金の利息を払う」と説明している。要するに自転車操業である。
また,国民間の貧富の差は非常に大きく,ブッシュ政権になってからその差はますます大きくなっていることは,皆様ご承知の通りだ。
アメリカの教育の問題も大きい。何しろ大学生の外国語履修者は6%に過ぎないのである。これは先進国では極端に低い。日本の大学でも,外国語履修者はほぼ100%に近いはずだ。
フランスは自国文化に誇りを持っているが,外国語教育は充実していて,しかもさまざまな言語を複数学ぶことも珍しくない。国として,文化として「多様性」を尊重する方が正しいに決まっているのである。
大体,進化論を学校で教える事が社会問題になっているというのが明かに異常だ。進化論が科学的に正しいという事は異論の余地がないことだ。進化論は万有引力の法則,三平方の定理,大陸移動説,メンデル遺伝,パスカルの原理などと同じ「科学の真実」である。それを聖書の記述と比べる方が狂っている。だから,同じキリスト教文化社会であるヨーロッパでもロシアでも「進化論は聖書の記述に反しているので教えてはいけない」なんて馬鹿な議論は絶対にない。聖書を科学を同列に論じている国の方がバカなのである。
アメリカという国は基本的に「小さな政府」を理想としている。税金を払うのがいやでイギリスを逃げ出した人間が作った国であり,それが建国の精神になっている。警察と軍隊以外の事は国が面倒を見ないよ,という方針で国づくりをし,国民の健康を守る事も教育も全て「民間丸投げ」である。だからとても安上がりの国になるが,弱肉強食の論理が露骨に出てしまうことになる。金持ちになるのも貧困にあえぐのも取りあえず「個人の自由」であり,国が面倒を見るべきではないと考えるからだ。
このあたりの事は,「アメリカ型の小さな国家」を目指している「小泉改革」が何をもたらしたかを思い出せばよくわかる。小泉政権になってから,ニートとフリーターが増えてリストラされる正職員が増え,少数のIT長者が生まれる一方で大多数のサラリーマンの給与は減っている。小泉政権が始まって1年目くらいから中高年の自殺が増えているのも象徴的だ。
英語が話せるようになることは素晴らしいことだし,世界中の人たちと意志の疎通ができたらもっと素晴らしい。しかし,国として英語教育にだけ力を入れ,英語が外国語の全てだと思うのは間違っているし,アメリカの方針に合わせるように日本の政治の方針を決めることもおかしい。物事を決める際に選択肢が多いほうがいいし,間違った選択をする危険性を分散できる。また,グローバル化と称して世界を一つの文化に染めてしまうのは異常で危険であり,少数の人たちの文化がそれぞれ尊重される世界が健常である。
要するにこの本は,そういう当たり前のことを当たり前に書いているだけである。
(2005/10/03)