『子どもが減って何が悪いか!』(赤川学,ちくま新書)


 これは,是非多くの人に読んでいただきたい本である。特に,国やお役所や報道機関や学会などがいうことを鵜呑みにして信じてしまう「素朴で純粋で騙されやすい」医者や看護師には必読の書だと思う。


 今の日本にはさまざまな問題があるが,中でも深刻なものが少子高齢化である。2003年の合計特殊出生率は過去最低の1.29であり,しかも下げ止まる様子もない。このままでは人口構造は高齢化し,若年労働力は減少し,人口そのものも減ってくるのは確実だ。
 この状態が続けば,経済成長がストップし,社会は活力を失うが,何より年金制度が破綻してしまう。この状態を何とかするためには,出生率を高め,少子高齢化を食いとめなければいけない,というが現在の日本の常識である。

 そういうわけで,「男女共同参画社会を実現して少子化を防ごう」とか,「女性が出産した後も仕事と子育てを両立できるような環境が整っている先進国は出生率も高い。日本はそうした環境が整っていないから出生率が低い。だから,公的子育て支援をさらに強力に進めるべきだ」という考えが一般常識となり,このような考えに反対する意見はほとんどない状態である(何しろ,少子化を防ぐことが国是みたいになっているから・・・)


 ところがこの本の著者は,この「常識」に真正面から反対するのである。それも,論理を武器に真っ向勝負をしかけている。「常識」が根拠にするデータの根拠を疑い,データの出し方の嘘を暴き,「少子化は問題だ」というが何が問題なのか,と問いかけるのである。その論理の切れ味は小気味いいくらいだ。その上で,リサーチ・リテラシー(社会調査,世論調査,統計データを批判的に解読する事)の重要性とその具体的な方法を教えてくれるのだ。


 例えば,「女性労働力率も出生率も高いスウェーデン,ノルウェーを見習えば,出生率が上がるはず」という意見をよく目にするはずだ。その根拠となっているのは1998年にある研究者が出したデータであり,これが何度も引用される。このデータはOECD加盟国の中の13カ国のデータから出されたものである。
 しかし,なぜその13カ国が選ばれたのかも不明なら,13カ国という少ないサンプル数で統計処理する根拠も示されていない。

 実際,この本の著者が他のOECD加盟国のデータを加えて相関係数を計算しなおしてみたら,女性労働力率と出産数には全く相関がなくなってしまったのだ。要するにこのもとになっているデータを出した研究者は,「もともと女性労働力率と出生率の相関が高い」12カ国に日本のデータを加えただけなのだ。つまり,都合のよい国だけを選んでいるわけだ。要するに,このデータを出した人は「出生率を上げるには女性労働力率を高めるべき」という結論を最初に作り,それに合うように(無意識的に)データ操作したのかもしれない。

 ところが,このようにして提出された「統計的事実」は,引用されるとデータが一人歩きし,その根拠が判らなくなっていく。データや論文を引用する人は,そのデータがどのようにして出されたかを気にしないからだ。

 どうもこの少子化対策を考える人達は,「高水準の社会福祉」を実現している北欧諸国を理想化していて,それは「スウェーデン信仰・スウェーデン神話」と呼ぶべき域に達している。スウェーデンやデンマークより出生率が高いアメリカ合衆国に少子化対策を学べ,という声は全くなく,学ぶ相手は北欧諸国だけなのである。これは要するに「思考停止」でああろう。


 そしてさらに,数字の上では相関がありそうに見えて,実は擬似相関だった,ということも非常に多い。本書も例に上げているが,統計処理すれば「コウノトリが多い地域ほど,一夫婦あたりの子どもの数が多い」という結果になる。そこで「子どもの数が多いのはコウノトリが子どもを運んでくれるから」と解釈したら馬鹿である。単に,コウノトリが多い地域は田舎なだけである。これが擬似相関だ。


 本書ではこのようなさまざまなデータの根拠を批判的に見直し,次のような問題点を挙げている。

  1. 男女共同参画社会が少子化対策として有効でないとしたら,男女共同参画は必要ないのか。
  2. 男女共同参画社会は,少子化対策と結びつくべきなのか。
  3. 少子化はなぜ問題なのか。そもそも問題なのか。
  4. 少子化が仮に問題であるとして,出生率回復策で対応するのがよい事なのか。
 要するに,少子化が進むのは社会構造の変化の結果である。だから,日本国内の「出生率の高い県」と「低い県」で何が違っているかを調べ,「高い県のようにすれば出生率が高くなるはず」と考えても無駄である。出生率が高い県は要するに田舎度・農村度が高い県であり,まだ出生率はそれほど低くないが,いずれ低くなる県だからだ。

 確かに,今の日本を昭和20年代に戻せば出生率は高くなるだろうが,出生率を上げるためとはいえ,車も新幹線も飛行機もなく,日本人の大半が農業や漁業に従事する社会に戻す事は不可能である。あるいは高学歴な女性ほど子どもの数が少ないからといって,女性から学歴を奪う事はできないのである。


 また,「産みたくても産めない」から子どもが少ないのだ,というのも根拠がない説だし,「男性の家事分担が増えれば子どもの数が増えるはず」というのもおかしい(理由は本書で見事に説明されている)

 要するに,「男女共同参画を進めると子どもが産める社会になる」,「女性の労働力率を上げれば少子化がストップする」とか,「子育て支援をするのが少子化対策の決め手」という考えの根拠となっているデータを全て見直した上で否定し,それらが嘘っぱちであることを暴露しているのである。

 そしてその上で,「男女共同参画を少子化対策の手段とするからおかしい。男女共同参画が正しければ,それを進めるべきであるし,その結果として少子化がさらに進んでも男女共同参画を進めたらいい」という著者の指摘は極めてまっとうである。同様に,「男性が家事分担をしたいと思ったらすればいいし,したくなければしなくてもいい。どうするかはパートナーの間で決めるべきであり,お上がとやかく言ったり介入するのは余計なお世話」という考えも極めて論理的である。


 何しろ,「年収300万円のサラリーマンにとって,住宅ローン,専業主婦,子どもは人生の三大不良債権ではないだろうか」という指摘すらあるのである(『「B]で生きる経済学』,森永卓郎)。おまけに日本は高度の都市社会である。これで子どもが増えるわけはないし,どのように金をかけようと社会福祉を進めようと,出生率が下げ止まる事はありえないのである。

 であればどうするか。少子化を認めてしまえばいいのである。少子化が避けられない社会的現象であることを認め,「少子化=悪」というドグマから脱却し,少子化社会が続く事を前提に,社会のいろいろなシステムを組み変えればいいのだ。


 しかし現実に行われているのは,
 〔現在の年金システムは維持されなければいけない〕
      ↓
 〔維持するためには人口が減っては困る〕
      ↓
 〔そのためには出生率を増加させよう〕
      ↓
 〔出生率を上げるためにはどういう手段があるか〕 という考え方である。

 しかしこれは「制度に合わせて社会を変化させないようにしよう」という考えである。だから最初から論理が逆立ちしているのだ。「社会構造が変わる」ことが避けられないのだったら,制度(システム)を変えればいいだけのことだ。制度や法律は変えてはいけないものと考えられがちだが,これらは所詮,現実の変化を後追いして作られているものであり,未来に起こるであろう出来事を予測して作っているわけではないのだ(これは憲法にも言えることだろう)


 先ごろ,厚生労働省は年金改革における負担と給付を計算するにあたって,出生率が2050年までに1.39にまで回復すると予測して発表した。「出生率回復のための政策を取れば,出生率が回復するはず」という机上の空論をもとにしての砂上の楼閣的改革案である。恐らく,厚生労働省のお役人だって,本当は出生率が上がらないだろうと考えているはずだ。だが,制度を変えるのが面倒だから現実をねじ曲げてまで神頼み的予測を発表したのだろう。

 少子化問題についてはさまざまな分析がなされ,提言が出されているが,「少子化は現在の日本社会にとって当然の現象であり,今後も少子化が進むことはあっても少子化に歯止めがかかることはない。それが現実である。まずそういう現実を認め,それをもとに対策を考えるべきだ」という本書の主張は,最も過激なものだと思うが,同時に本質をついている提案だろう。


 医学の諸問題もそうだと思うが,まず現実を現実として認めること,そしてその現実を素に議論することが必要である。「ラップでを創を覆うと化膿するのではないか?」というような机上の空論の上に立って議論したってしょうがないのである。
 ラップで褥瘡を覆うと,他の薬剤も使わずに治癒すること,感染するわけでもないこと,皮膚が浸軟するわけでもないこと,浸軟した皮膚にトラブルが起きているわけでもないこと・・・などの「事実」をまず認め,そこから議論するのでなければ,何も始まらないのである。

(2005/03/15)

 

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