『安全と安心の科学』(村上陽一郎,集英社新書)


 この世の中は危険に満ちている。交通事故では国内だけでも年間8,000人が死亡し,その数倍の人間が身障者になっている。飛行機事故は少ないとはいえ起きたら大惨事になるし,原子力発電所の事故もそうだ。地震は突然起きるし,前触れもなく津波が押し寄せる事もある。病院で医療事故は起きるし,学校やスーパーで殺人事件に巻き込まれる事もある。

 この本は,それらの危険のうち,医療事故や交通事故,原発事故などの発生をいかにしたら少なくできるのか,そのためにはどのような事をしなければいけないのかを,極めて多方面から理論的に説明しているが,私が以前から考えたり書いたりしたことをさらにわかりやすく,明確に述べたものとなっているため,ここで紹介しようと思う。


 例えば交通事故だ。年間8,000人前後が死亡しているのだから,一日あたり,けが人も含めたら50人以上が死傷している事になる。この数年間で日本では航空機事故は起きていないし,死者を発生させた列車事故もほとんどなかったはずだ。もちろん,原子力発電所事故での死者もゼロである(東海村JCOの臨海事故はあったが,これは原子力発電所ではない)。それらに比べた時,交通事故の死傷者の多さは異常である。

 航空機事故と交通事故で何が違っているかといえば,事故原因の究明システムの違いであるらしい。

 航空機事故の場合は事故の責任を問うことを目的とする警察の調査のほかに,警察とは独立の第三者機関が事故調査を行うのが常識となっている。この第三者機関の目的は事故原因の究明であり,誰に責任があったか,どれほどの過失があったかは問題としていない。


 なぜこのようなシステムになっているかといえば,失敗から学ぶためである。なぜそのような事故が起きたのか,その事故はどのようにしたら防げるのかを徹底的に究明し,それをもとに現在の飛行機の構造や操縦席の構造で直せるものは直し,操作マニュアルを修正し,人為的・機械的ミスを少なくするのだ。

 そしてこの時に重要な事は,事故調査委員会への証言は警察の証言とならない,ということだ。もしも自分の罪が問われるとなったら警察へは証言拒否する事もあるだろう。しかし,「あなたのミスがどのように起こったかだけ教えて欲しい。それは警察には秘密にしておくし,それで罪を問われる事もない」と言われたら,スムーズに証言してくれるだろうし,その証言は次の世代に生かされることになる。

 航空機業界は実は,このようなシステムを作り上げる事で事故を激減させたという。


 しかし,交通事故の場合はどうだろうか。事故究明は警察と保険会社だけが行っている。前者は責任の所在を明かにするのが目的だし,後者は保険金の支払いを決めるのが目的だ。だから,何度交通事故が起きてもその知識が生かされることはないし,何度も同じ原因で事故が起きてしまう。

 なるほど,これなら日本で交通事故がなかなか減らない理由が理解できる。減らすためのシステムが全くないから当然なのだ。


 事故が起きた時に責任を問う前に,何が起きたのかを正確に把握し,それによって将来同じ事故が起きた時に同様に悪い結果にならないようにするシステムが重要だ。それが「フール・プルーフ(fool-proof:ミスをカバーできる)」や,「フェイル・セーフ(fail-safe:ミスがあっても安全)」である。
 要するに,あらゆる可能性を想定する事は人間にはできないし,過去に起きた事がない事態を予測する事もできない。そうである以上,人間は過去の過ち,過去の事故から学ぶしかない。そう考えた時,過去の事故や過ちは「宝物」に変化する。この「宝物」を大事にして活用しよう,ということが事故を減らす第一歩なのである。

 アメリカではクリントン大統領時代に「医療の質」委員会が設けられたが,その調査結果をまとめた本のタイトルは,'To Err is Human' だった。つまり,『人間は間違えるものである』である。そして冒頭,「医療の分野は,基本的な安全対策を重視するハイリスク産業に比べて10年以上遅れている」と指摘しているそうだ。現在の日本の医療現場はどうだろうか。クリントン時代のハイリスク産業の安全対策に追い付いているのだろうか。


 本書でも指摘しているが,「自分達は愚行など犯さない」,「失敗は未熟や注意力不足から来る」という考え,愚行を非難し,未熟を咎め,不注意を叱責するだけでは何の解決にもならないのである。「今後同様に事故が起きないように心がけましょう」と言うだけでは,同様の事故は必ず起きてしまうし,再発を防ぐ事もできない。

 そのような事故の再発を防ぐ唯一の方法は,失敗やミスの報告義務とし,それに対して責任を問わないシステムを作ることで,それらの知識を相互の財産とすることである。そしてこれは品質管理の立場から見れば,基礎中の基礎なのである。失敗した人間の責任を糾弾する事は,実は事故防止では最悪の選択肢なのである。叱責されることがわかっていれば,失敗したとき人間はそれを隠すのが自然な姿だからだ。


 また,「安全が達成され,安全な状態が続いているときこそ,実は最も危ない」という指摘も本質をついていると思う。事故が起きていない状態が続いていると,どうしても「努力しなくても事故なんて起きないもんだなぁ」と考えてしまうからだ。

 さらに,「機械は故障し,人間は過ちを犯すものだ」ということを前提にシステムを組みたてろ,という指摘ももっともである。人工物である限り破壊は起きるし磨耗も起きる。永遠に壊れない機械なんてない。おまけにどんなに注意しても人間の側のミスは防ぐ事はできない。
 要するに,機械があってそれを人間が操作している限り,「絶対に安全」「絶対にミスが起きない」というのは机上の空論であり,「このような事故が起きてはならない」というお題目を唱えていても,またいつか同様の事故は起きるのを防げない。

 事故が起きるためには,事故を誘発するような操作システムがあったり,操作を間違いやすいボタンの配列があったり,人間の反射的動作と反するような操作システムがあったり,そのようなことが積み重なって事故が起きている。それらによる事故であれば,それを修正するだけで事故を減らす事ができる。

 実際,航空機業界はそのような事故を洗い出して修正する事で,劇的に事故を減らしているのである。それに比べたら,医療現場の努力はまだまだ不足していると思う。


 また,「リスク・マネジメント」を日本では「危機管理」と訳しているが,これも本来のリスクの意味とニュアンスが違っているらしい,というのも面白い。本来のリスクとは,「「行為者が自ら危険を認知しつつ敢えてその危険に挑む」という意味で,要するに「虎穴に入らずんば,虎子を得ず」という雰囲気の言葉だという。決して,天から降ってくるのが「リスク」ではないのである。

 例えば日本では,「この池に立ち入るのは危険」と言うときは「ここから先は立ち入り禁止」という看板を出すが,英語では 'Beyond this barricade at your own risk!' となるそうだ。つまり,「この柵から先は,君自身の責任において入るなら入ってもいいよ」という意味である。ニュアンスが全く異なっていることがわかると思う。文化の違いといえばそれまでだが,その意味するところはかなり違っていると思う。

 考えてみたら,医療行為の全てはまさに上記の「「行為者が自ら危険を認知しつつ敢えてその危険に挑む」そのものである。リスク管理とはそういう「リスク」を何とかしよう,という考えであるという。

(2005/02/07)

 

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