「マンハッタン物語 上・下」(フランク・コンロイ著,講談社文庫)
 ピアニストを主人公にした小説はそう珍しい物ではない。しかし,少年がピアノ(音楽)に目覚め,成長して行く仮定を描いた小説となると,かなりまれである。そういう分野に,一つの傑作がある。「マンハッタン物語 上・下」(フランク・コンロイ著,講談社文庫)がそれだ。

小説は,幼い日の主人公がピアノの音に魅せられ,ついには自作のピアノ協奏曲をロンドン交響楽団と演奏するまでを,丹念に描いている。そのストーリーはほとんど御都合主義の「ハーレクイン・ロマン」スレスレだし,根っからの悪人は登場しないし,波瀾万丈の出来事がある訳でない。
 それにもかかわらず,私がこの小説に魅せられるのは,ピアニストの指,音を紡ぎ出す指,俊敏に正確に強靭に動く指,それが実に活き活きと描かれているからだ。鍵盤を疾走するピアニストの肉体が描かれているからだ。

 おまけにこの小説は,ピアノに対する知識,理解がハンパじゃない。小説中に登場する曲,ところどころで挟まれる音楽理論や和声理論,ピアノの練習法が,ことごとく正確なのである。間違いがほとんどないのである。
 例えば,世界的ヴァイオリニストが,主人公のテクニックと音楽性を見るための試験(もちろん,自分の伴奏者としてふさわしいかの試験ですね)としていきなり弾かせた曲がすごい。スクリアビンが3曲,作品42の3,作品8の10,そして作品42の5! この選曲を見て私はシビれましたね。まさかこれほどの選曲が見られるとは!!
 作品42の3は「蚊」と言うニックネームを持つトリルの練習曲。指の正確で俊敏な動きを見るには最適。次の作品8の10は「3度の練習曲」。右手の長3度による急速な半音階と,左手の大胆な跳躍が要求される。
 そして,作品42の5。悲愴で,健気で,悲劇的で,超越的で,憧憬と冒険心,絶望と悔悟が錯綜し,巨匠的な技巧と,尽きる事のない力と熱を要求する,この至高のエチュード! ピアノを知る者だけが選びうる,最高の選曲ではないでしょうか。

そして,所々で挟まれるエピソードがまた,非常に嬉しい。例えば,上記のヴァイオリニストが主人公に語る,クライスラーとラフマニノフの話。
「二人はとても気心の知れた仲だった。(ところが演奏会の最中),ヴァイオリンのパートをクライスラーがど忘れしてしまった。どうしても思い出せないので,音楽を勝手に作り始めたんだ。二人は長い事コンビを組んでいたから,ラフマニノフはクライスラーの即興のクセを知っていた。そこで,彼に助け船を出す代りに,ピアノの方まで即興で弾き始めた。大変な事になったんだ。」
「どうなったんですか」
「クライスラーがピアノに近寄って,どこだ? いま』って小声で聞いた。ラフマニノフはすまして『カーネギー・ホールだ』」

あの憂愁の巨人,ラフマニノフにこんな美味しい話があったとは! こんなエピソードが随所に挟まれています。これだけだって,読んで得したなあ,と思いましたね。

あるいは,最後の師(どう見てもショパンがモデル)と一緒に,モーツァルトのダブル・コンチェルトを練習するシーン。トリルの音を如何に合わせ,フレーズを一致させ,和音をきれいに響かせるか二人で練習するのですが,楽譜を見ながら読んでも,その正確な記載にはびっくりします。
あるいは,音楽祭で予定されていたピアニストがトラブルのため弾けなくなり,急遽,急造のピアニストとして指名され,ベートーヴェンのピアノ五重奏曲を弾くシーン。ここは,売れない時期のホロヴィッツが,公園で時間をつぶしていたら,急にチャイコフスキーのコンチェルトのソリストとして指名され,急いでコンサートホールに駆けつけたと言う逸話を彷彿とさせます。まさに,血沸き肉踊る場面です。

そして,ジャズに関する深い愛情。至る所で,アート・テイタム,チャーリー・パーカーなどの名前が登場し,ジャズの和声理論が登場します。主人公が,テイタムのアレンジを弾くシーンなど,この希代の演奏家(しかも,盲目!)のファンには感涙物でしょう。 あるいは主人公が,パーカーの演奏に重ねて自作の12音技法の曲を弾くシーンなど,実際に聞けたらなあ,と思ってしまいます。

最高のシーンは,小説の最後,父親とのセッションでしょう。演奏会の前日,ジャズが聞きたくて立ち寄ったナイト・クラブ,そこでは父親(生き別れになっていて,お互いに親子である事は知らない)と,連弾によるジャズ演奏を繰り広げます。ここは本当にすごい。手に汗握る描写です(月並みな語句を使ってしまったなあ・・・反省!)。
鍵盤に飛び散るピアニストの汗,躍動する指,瞬時のうちにめまぐるしく動く和声,その和声の動きを敏感に察知するベースとドラム,綱渡りのような丁々発止のセッションに引き込まれる聴衆・・・。それらが余すことなく描き尽くされています。二つのピアノを愛する魂が,鍵盤を介して会話し,互いの魂を理解する,奇跡的な瞬間が描かれています。

惜しむらくは,この本が1994年に出版され,その後重版されなかった事でしょう。現在まだ本屋さんに並んでいるかどうかは不明です。しかし,ピアノを愛する人であれば,苦労して探すだけの価値はあります。

文句があるとすれば,タイトルの邦訳のひどさにつきます。原題は "Body & Soul",簡潔にして,格好いいじゃないですか。それなのに,邦訳は「マンハッタン物語」! 一体なんなの!!
これじゃ,ニューヨークを舞台にしたしょうもない短編集かエッセイ集としか受け取られないじゃないですか。間違っても,音楽小説とも,ピアニストを主人公とした小説とも受け取る人はいないでしょう。それほど酷いタイトルです。
翻訳者および講談社の編集者,あんたはこの小説を何だと思っていたのかね!。

(1998/11/28)

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