『<宗教化>する現代思想』(仲正昌樹,光文社新書)


 20代半ばの頃,哲学とか現代思想とかに興味を持った時期がある。当時は確か,「エピステーメー」とかいう雑誌や「ユリイカ」なんて雑誌が全盛期(?)で,そういうのを読んでみたのだが,これがもう全然わからないのである。その頃までに「カラマーゾフの兄弟」を3度完全読破した私の読書力をもってしても,全く歯が立たないのである。なぜかというと,何が書いてあるかが全くわからなかったからだ。確かに日本語で書かれているのだが,私の知識では日本語として解読できないのだ。

 例えば,「この▲▲という問題についてはヘーゲルが○○であることを証明したが・・・」という一文があるのだが,▲▲が何を意味している単語なのかわからないし,ヘーゲルがどのように証明したのかも○○という単語がわからないから理解できない。第一、へーゲルが誰かもわからない。同様に、「この問題は■■と置き換えると明瞭だが」と説明されているのだが,肝腎の■■がわからないからちっとも「明瞭」にならないのだ。

 おまけに,カタカナ語がバシバシと連続する文章が多数あるのだが,そのカタカナ語は普段使う言葉でなく,どんな意味の単語なのかがわからないし,おまけに言葉の説明もないのだ。要するに,「このカタカナ語(専門用語)は知ってるよね。常識だよね。知らないやつはお呼びじゃないよ」というスタンスの文章ばかりなのである。「この言葉,知らないやつっていないよね」ってな雰囲気が雑誌全体からプンプン漂っているため,「知らないから教えて」とも言えない雰囲気なのだ。だから,判ったフリをしてなんとか読んだけど,やはり判らないものは判らなかった。

 ちなみに,このような「このカタカナ語,知っているよね。知らないやつは相手にしないよ」,という姿勢は,今日の日本の医学界では,院内感染方面,EBM方面,クリニカルパス方面に見られると思う。これらでは「バリアンス」,「アウトカム」,「サーベイランス」などのカタカナ語のオンパレードであり,そのカタカナ語を知らない人は入っていけない世界となっている。わかりやすい日本語にすればいいのに,と思うのだが,どうも英語をそのままカタカナに置き換えて使うのがこの分野の流儀・作法のようである。「アウトカム」を「結果」と翻訳するのはどうやらご法度らしい。
 クリニカルパス方面の先生に聞いたところ,看護診断も難しい言葉のオンパレードで,クリニカルパスにのせるために簡単な言葉に言い換えてもいいのではないかと看護師さんに提案すると,「この言葉を変えることは絶対にできません」の一点張りだったそうだ。どうやら彼女にとって,内容より言葉のほうが大事らしい。

 おまけに20代前半という時期は,人から馬鹿にされるのを一番嫌がる時期であり,偉く見せることに腐心する時期なのである(少なくとも私はそうだった)。そして,この手の雑誌を読んでいると偉そうに見えるはずと考えていたもんだから,難しそうな雑誌の中でも一番難しそうに見える「エピステーメー」を持っていたんだよね。今考えると馬鹿真っ盛りだったわけである。ま,「若さ」というのと「馬鹿さ」は発音的に似ているし,第一、「馬鹿さ」のない「若さ」というのはないのだから,ま,それはそれでいいのである。


 ・・・なんて昔話を懐かしく思い出しながら読んだのが本書である。この本は何かというと,哲学や思想が陥りやすい論理の罠,哲学で自明の理として前提にしていることのあやふやさを明らかにし,合わせて,さまざまな現代思想の問題点を抉り出そうとする力作である。もちろん,哲学や現代思想の専門家を任ずる人たちからは,「この哲学者は批判しているのに,こちらの思想家を俎上に上げていないのはおかしい」とか,「批判の内容はもっともだが,それではどうしたらいいか,という提案部分が乏しい」という批判があると思う。

 しかし,西洋哲学の系譜と現代思想のエッセンスを巧みにまとめ,その問題点を次々に明らかにする手腕は見事だし,文章もこなれていて読みやすく,入門書としては十分すぎる内容だし,色々なことを考えるきっかけになるはずだ。私が若い頃にこういう本があったら,少なくとも「エピステーメー」のわけのわからない文章をわかったフリを読むようなことはしなかったろうなと思う。


 この本で指摘していることはさまざまあるが,それらの根源にあるのは人間の思考法というか,考え方のクセそのものだと思う。
 「世の中は白と黒に分けられるものではない」というよりは「世の中は白か黒だ」と言い切るほうがわかりやすいし,「答えが重要なのでなく、答えに至る思考過程が重要なのです」という人より「こちらに進めば答えが見つかる」と断言してくれる人のほうが頼もしい。形而上学的な概念(「愛」とか「善」など,目に見えないもの)を抽象的な言葉を連ねて説明するより,具体的なものに置き換えて説明してくれたほうがわかりやすく,そういう説明をしている人の方が利口に見える。
 なぜか? それは多分,そういう風に無意識に感じるように人間の脳みそがプログラミングされているからだろう。

 そして,人間の想像力には限界がある。自分に知識の範囲内でしか想像できないのだ。だから,食べたことがない料理の味は想像できないし,聴いたことがない音楽を想像することもできない。その結果,怪物や神様や悪魔の姿は人間や実在の動物に似ているか,あるいは人間と実在の動物のパーツをくっつけた形になってしまう。「見たこともない怪物」の姿は思い描けないのだ。これが人間の脳みその限界であり,基本構造なのだろう。


 そして,人間の思考様式,思考パターンは生まれ育った環境の文化に大きく左右されるし,母国語の構造も思考様式そのものに影響を与えるが,こういう影響はあまりに根源的なためにほとんど気がつかれることがない。気がつくのは,他の異なる文化に触れたときだけである。

 だから,ソクラテス以来の西洋哲学は本質的に、ユダヤ教-キリスト教の一神教の考え方と宗教によって形成された「常識」に強く支配されているが,西洋哲学,西洋思想しか知らない哲学者は「自分の考え方のパターンはキリスト教の考え方に縛られている」とはまず絶対に気がつかない。例えば,プラトンからデカルトに至る西洋形而上学では「精神 vs 物質」という二項対立でものを考え,マルクスの唯物史観も二項対立思考の典型であるが,これは「神 vs 悪魔」,「善 vs 悪」,「光 vs 闇」という砂漠の民から生まれた宗教の典型的思考パターンを出るものではなく、彼らは要するに、物事を二つに分けて考える癖があるということなのだろう。

 同様に,「原始共産制⇒古代奴隷制⇒中世封建制⇒近代資本主義⇒社会主義⇒共産主義社会と文明は進歩し,その究極の形態として共産主義社会が達成される」という思想も,「ハルマゲドンを経て神の国へ」という黙示録の記述の焼き直しに過ぎない。宗教というやつ,特に一神教の教えは文化の根底にあり,しかも大脳皮質の一番深いところに焼きついているものだから,知らず知らずのうちに思考パターンを制限してしまうのだろう。そしてこのあたりは,社会科学全般に見られる現象だと思うし,場合によっては自然科学の思考法にも影響を及ぼしていると思う。

 だからといって私はマルクスを非難するつもりもないし,デカルトに喧嘩を得るつもりもないし,ソクラテスやプラトンを否定しようとも思わない。もちろん,ハイデッガーもデリダに対してもそうだ。要するに,人間の脳みそとはそのようにできているか,そのように思考するようにプログラムされているかの,どちらかだからだ。


 同様に,人間は愛とか悪とか正義などの形而上学的概念を考えるのが好きだが,それらは形而上学的なものである以上,手に取ることも目で見ることもできない。そのため人間は,比喩という手段を発明した。「正義とは一本のまっすぐな矢のようなものだ」とか「一目惚れの感情は朝露のようにやがて消えてしまう」といった感じの比喩である(因みにこの二つの比喩は私が適当に作ったものなので,出典は何,なんて聞かないでね)。「正義」と言われるとなんとも表現の言葉に困るが,「まっすぐな一本の矢」というとなんとなく納得してしまうはずだ。

 問題は,「これは比喩だよ」と意識しているうちはいいのだが,それを忘れて,比喩が一人歩きしてしまう点にある。例えば,「正義とは一本の矢だ」という比喩があると,「矢だとすると,弓は何に相当するのだろうか? 弦に相当するものは何か? 矢を打ち出す力は何なのか?」といった具合に,具体的な「弓矢」に合わせて「正義」を再定義しようとするのだ。もちろん,「正義は一本のまっすぐな矢」というのはうまい比喩だと思うが,だからといって,弓矢の各成分に「正義」が対応しているわけでないのだ。このあたりの間違いも世の中ではよく目にすると思う。

 生物進化は以前は一本の木の形(樹形図)で表されていたが、これも単なる比喩である。ところが,この樹形図は,「下等な生物の細菌」から「万物の霊長たる人類」へと生物は連続的・段階的に進化するものだ、と勘違いさせる原因となった。これは明らかに樹形図の描き方のミスなのだが,これこそまさに「比喩にあわせて現実を解釈」の典型例だと思う。動物園のチンパンジーが人間に進化することはないし,細菌が何億年かかってもホヤに変化することはないのである。そして,このあたりの勘違いが,「進化論は聖書の教えに反する」という勘違いを引き起こし,その勘違いを真に受けたアメリカ人たちはいまだに「進化論を教えるなんて汚らわしい!」と本気で思っているわけだ。いかに人間の脳みそは比喩が好きで,比喩を通してしか理解できないことがあるのか,よくわかる。


 そういうわけで,西洋哲学や現代思想にこれから触れてみようという人,一度勉強したけれど難しすぎてお手上げだったという私のような人には,本書を強くお勧めする。読んで絶対に損はないし,本書を読んでから思想書を読み直すと,いろいろなことが見えてくると思う。

(2008/11/17)