『アメリカの宗教右派』(飯山雅史,中公新書ラクレ)


 考えてみるとアメリカという国は相当変な国である。何しろ,科学の常識中の常識である進化論を信じているのは全国民の1/4で,残りの大半は信じていないのである。さらに国民の9割以上が神の存在を信じていて,8割以上の人は生活の上で宗教が最も重要と考え,4割の人は毎週教会に通っているのである。これではほとんど,中世時代の人間である。

 この傾向は他のヨーロッパのキリスト教国と比較すると,さらにその特異性が際立つ。「死後の世界をあなたは信じますか?」という質問に対し,フランスでは35%の人がイエスと答え,アメリカでは70%がイエスと答えているし,「あなたは悪魔の存在を信じますか?」という問いに対しては,イギリスでは28%がイエスなのに,アメリカでは65%がイエスなのだ。悪魔の存在を6割以上の人が信じているなんて,まさに中世そのままである。


 悪魔やら神の実在を信じているんだからよほど教育水準が低いんだろうなと思うとそうではなく,むしろ,世界一の科学技術を持っていて,ノーベル賞をバンバン取っているのだ。最先端科学技術と悪魔を信じる人が多数派を占めているというのがなぜ共存しているのか,私にはどうにも理解できないのだ。その他のヨーロッパ諸国にしても日本にしても,自然科学の発達とともに生活に占める宗教の比率は次第に小さくなっていったのに,なぜかアメリカだけは違うのだ。

 しかもアメリカの小説やらエッセイを読むと,他の国にはない宗派が次々と出てくるのも不思議だった。福音派やら長老派やらメソジスト派やクエーカーなど,プロテスタントとどこが違うのかよくわからないし,アーミッシュまでくると生活そのものが19世紀のままだ。やはり変な国だなと思ってしまう。

 しかもこの国では何かというとすぐに聖書がしゃしゃり出る。例えば,大統領の就任宣誓式では聖書に手を置いて行われるが,これは政教分離に反しているんじゃないかと思わないだろうか。だって,日本の内閣総理大臣が就任の際に。般若心経や観音経を片手に持っていたらおかしいでしょう? 少なくとも私の目には,アメリカ大統領の宣誓式は「手に般若心経を持った大統領」みたいに映るのである。アメリカでは政教分離の概念がおかしいんじゃないだろうか。


 そういう疑問を持っている人には本書を推薦する。このあたりの疑問やアメリカの宗教と政治の問題が,実に明快に説明されているのだ。アメリカ建国前夜から2008年の大統領選挙決戦前夜までの宗教の状況を手際よく整理し,事実を元に淡々と分析し,わかりやすく書き進める手際は見事だと思う。

 そして何より,宗教と政治に対する中立的な視点がいい。こういう宗教がらみ,政治がらみの問題を説明するとき,どうしても筆者自身のスタンスが絡んできがちだが,そういうバイアスが全くないのである。

 また,本書は9つの章からなっているが,各章の最初に1ページ程度の要約があり,とりあえずその部分だけ読んでも大体のことはわかるようになっているのもいい。ここまでわかりやすさにこだわって書かれている本に出会うと,嬉しくなってしまう。


 例えば,アメリカでの政教分離というのは「特定の宗教や教派を特別扱いしてはいけない」ということであり,宗教者が政治に口を出すことを禁じているわけではないのである。要するに,「宗教の自由市場競争主義」が大原則で,いろいろな宗派が信者獲得競争をしていて,国家はそれを邪魔するな,というのがアメリカの政教分離なのである。
 なるほどなぁ,アメリカというのはそもそも,キリスト教を社会建設のすることを大前提に作った国なんだ,だからキリスト教初めにありきなんだ,ということに改めて気付かされる。

 国家というか連邦政府についての基本思想も独特だ。「連邦政府なんて碌なもんじゃない,連邦政府に権力を持たせたら何をするかわからない,だから連邦政府の権力をなるべく小さくしないといけない」ということが大前提らしいのだ。政府なんてせいぜい治安と外交だけやっていればいい,というのが大前提なのだ。自由が何より大事であり,信仰の自由を得るために作った国がアメリカだからだ。各州が独自性を持って自由に州を運営していくことが何より大事なのだ。

 もちろん,教育だって例外ではない。教育は州が決めるべきことなのである。だから,進化論を教えるかどうかが大問題になるのだ。「進化論は世界の常識だ」と言われようが,「進化論を信じないなんて無知蒙昧の輩」と馬鹿にされようが,州独自の教育と伝統を守っていくほうが重要なのだ。


 そういう素晴らしい「自由」を守るのがアメリカの「保守」思想である。これをテーゼにして結成されたのが共和党だから,共和党政権は必然的に「小さな政府」を目指すのだ。

 逆に,アメリカで「リベラル」といえば,「政府を信頼して権力を持たせよう,所得の公平な分配をしよう,福祉も重視しよう,そのためには自由競争を制限してもしょうがないじゃないか」という思想であり,その政党が民主党だ。だから民主党政権は「大きな政府」を目指す。

 普通,「保守」といえば封建主義や君主制を守ることを言うし,「リベラル」といえば横暴な君主を倒し,政府の力を制限して国民の自由を確立する立場である。保守は爺臭く,リベラルの方が若々しい。
 しかし,これがアメリカでは逆転してしまうのだ。アメリカでは「建国の精神である自由主義の伝統を守ること」が「保守」だからだ。逆に,アメリカで「リベラル」「リベラリスト」というのは負のイメージのある言葉なのである。


 このようなアメリカ独特の文化・伝統をベースに,人種や出身国別に作られたコミュニティがあって,それらごとに独自の文化と伝統があり,その小さなグループごとに宗派が分かれたわけである。そして,各宗派が信徒獲得の「自由競争」をしているのだ。アメリカの宗教の状況が傍目からわかりにくいのも当然だったのだ。

 さらに,南北戦争の頃,北部は共和党,南部は共和党支持だったのに,現在それが逆転してしまった理由,そして共和党と宗教右派が結びついた理由も明確に説明されていて,非常にわかりやすかった(そういえば,私は受験では世界史を選択したが,「きたはきょうわとう,みなみはみんしゅとう」と韻を踏んで覚えたのを懐かしく思い出したが,それは1970年代までの南部,北部の支持政党の話だったらしい)
 ちなみに,この「地域による支持政党」の変化を生み出したのは,人種差別撤廃を目指した1960年代の民主党による公民権運動だったというのも納得できる説明だった。


 この紹介文,次回に続きます

(2008/12/26)



































































































































































【第1章 プロテスタントとアメリカ】

【第2章 プロテスタント大分裂】

【第3章 リベラルの時代】

【第4章 宗教右派は何を求めているのか】

【第5章 宗教右派の勃興とモラル・マジョリティー】

【第6章 確立した宗教右派運動とキリスト教連合】

【第7章 ブッシュ政権と宗教右派の絶頂期】

【第8章 21世紀アメリカの宗教勢力地図】

【第9章 宗教右派の停滞と福音派の影響力】









 たとえば,料理の名人がいて,彼の弟子たちの間で「俺の方が師匠が認める料理だ」と論争が起きたとする。この場合,名人が生きていれば問題は簡単。料理を食べてもらって名人に判定してもらえばいい。

 問題は,名人がすでに故人の場合だ。名人が書き残したレシピに忠実であればいいのか,名人がことあるごとに弟子たちに伝えた言葉に忠実であればいいのか・・・と,複数の判定基準ができてしまうからだ。

 ある弟子は師匠から言われた「レシピは全ての基本だ,忠実に守れ」との言葉が大事だと考えるだろうし,別の弟子は師匠から言われた「レシピは大事だが状況に合わせて味付けを考えることも大切だ」という言葉の方が重要だと考えるかもしれない。このように、師匠から直接指導してもらった弟子たちでも基準はまちまちだ。


 さらに時間がたつとどうなるだろう。残っているのは名人が直接残した(とされる)レシピと、その愛弟子たちが書き記した「私はこのように料理を教えてもらった」というレシピ、そして、弟子たちがまとめた「名人の言行録」だけしかない。
 しかしその頃になると、レシピに書かれたいた食材が入手できなくなったり,料理名人が生きていた時代にはなかった食材が普通に使われるようになっている。また、名人が知らない海外の料理も入ってくるようになる。

 しかし、そういう時代になっても、「名人のレシピ」には新しい料理が追加されることもなければ、新しい料理素材が追加されることも、新しい調理法が加わることもない。名人のレシピに何かを加えたり削ったりしたら、もうそれは「名人のレシピ」ではなくなるからだ。要するに、規範である名人のレシピは一字一句変えてはいけないのだ。


 もうここでおわかりと思うが、この「レシピ」が宗教の教義における「聖典」である。キリストの言葉にしろ、マホメッドの言葉にしろ、釈迦の言葉にしろ、孔子の言葉にしろ、それを変えることは許されないのだ。一字でも変えてしまったら、それはキリストや釈迦を冒涜することになるからだ。そして同時に、一字も変えずに次の世に伝えることが聖職者の仕事であり義務なのだ。

 というわけで、大昔に成立した聖典をめぐって、俺たちの方が正しい解釈をしている、いや、俺たちの解釈の方が正しい、という本家争いが生じたとき、それは聖典に書かれている字句を巡る解釈の争いになる。

 これは前述のレシピで考えるとよくわかる。大昔の料理名人の残したレシピを巡って、どっちの料理法が正しいのかという論争である。だから、たとえばレシピに「塩」という言葉があったら、その塩は岩塩が正しい、いや、入り浜方式の自然塩が正しいはずだ、いや、釜で煮て作った塩の方が正しい、という議論になり、岩塩派と入り浜塩田派で大激論になり、お互いに意見を融通しあうことはできないから、やがて血で血を洗う抗争に発展したりする。

 同様に、銅鍋か土鍋かで宗派が分かれるし、砂糖の種類、醤油の種類についても大激論となる。


 もちろん、これらの宗派対立は、そもそも名人の料理が知られていない国の人間から見たら、滑稽極まりないものにしか見えない。そんな議論はどうでもいいから、うまい料理を作れよ、と言いたくなるが、そんな批判は通用しない。批判した人間の暮らす国(地域)にも、独自の「大昔の名人のレシピ」があり、「この国の料理とは、大昔の名人のレシピに従って作るもの」という定義を最初に作ってしまったからだ。これが一神教の世界である。

 要するに、「過去のレシピ(聖典)の解釈学」=「料理(宗教)そのもの」になり、解釈する聖典の情報が限定されている以上、単語のわずかな解釈の違いに独自性を託すしかないのである。しかも「料理で正しいのはこの名人の料理だけ」という一神教の世界だから、わずかな違いでも妥協できないのだ。


 かくして、「同一宗教内の宗派間のストイック競争」を加速させ、端から見れば「我慢大会」の様相を呈してくるのだろう。









 カトリックとプロテスタントでは,どちらの方が自由だろうか,どちらの方が華やかだろうか。なんとなく,「ローマ法王を頂点とするガチガチの宗教集団がカトリック」vs 「そういうカトリックを否定したプロテスタント」という風に考えると,プロテスタントのほうが自由闊達に思えるが,実は自由で遊びのある文化を生み出したのはカトリックの方であり,プロテスタントの文化は謹厳実直,沈鬱重厚なのだ。

 このあたりは,カトリック文化の絵画・音楽と,プロテスタント文化の絵画。・音楽を比べてみるとよくわかる。例えば,全く同時代人のイタリアのスカルラッティとドイツのバッハではまるっきり違っているのだ。スカルラッティはあくまでも華麗で軽快で明快で感覚的だが,バッハの音楽は重厚で理詰めで四角四面だ。同様に,建造物として教会を見ても,華麗なのはカトリックの教会,重々しくて暗い感じがするのはプロテスタント教会の方である。もちろんこれは,陽性の南ヨーロッパ(カトリック)と陰性の北ヨーロッパ(プロテスタント)の文化の違いという面もあるが,その文化を生んだのは紛れもなく宗教なのである。


 なぜそうなるかというと,カトリックの全否定から生まれたのがプロテスタントだからだ。プロテスタント運動を始めたマルチン・ルターにとってカトリックは敵であり,倒すべき目標だ。「カトリックの考えにはいいところもあるが,おかしな部分もある」なんて生半可なことを言っていてはカトリックは倒せないのだ。だからルターはカトリックの教義の全て,典礼の全て,そしてシステム全体を否定したわけだ。カトリックのすべてを否定することでしか,「新しい宗教(=プロテスタント)」の正しさを証明できないからである。そのために,いかにカトリックの教会が腐敗し,ローマ法王が信徒を抑圧・搾取し,彼らがいかにイエスの言葉に背いていたかを証明する必要があったわけだ。

 例えば,カトリックがローマ教皇を頂点におくピラミッド構造をしているのであれば,自分たちは聖職者である牧師はいても牧師間の上下関係をつけない,とするのだ。カトリックの神父が結婚できないのであれば,プロテスタントの牧師は結婚できるようにするのだ。カトリックが自由放埓なら,自分たちはその逆の抑圧的で重々しくしなければいけない。要するに,何から何までカトリックの逆をやればいいのである。このようにして,プロテスタントの教義はカトリックよりストイックなものになっていった。


 では,「ルターの改革はまだ手ぬるい。俺たちはもっとピュアな信仰に生きるべきだ」と考える一派がいたらどうなるだろうか。この場合,彼らの攻撃対象はカトリックではなくプロテスタントである。だから方法論としては,「ルターの改革は中途半端だ。俺たちはもっと徹底している」と主張するわけである。当然,ルターの教義よりもっとストイックな教義が必要になる。

 アメリカを作ったのは,イギリスに誕生したピューリタン(清教徒)と呼ばれるキリスト教宗派の信徒たちだった。当時のイギリスの宗教はイギリス国教会だが,この宗派はヘンリー8世が離婚したいがために作った宗教で,その実態は「離婚ができるカトリック」であり,一応プロテスタントに分類はされるが,その実態は「プロテスタントの最保守」なのである。それに対して,これはプロテスタントの皮をかぶったカトリックではないか,と文句をつけた連中がピューリタンなのだ。当然,その教えはイギリス国教会の全否定になり,先鋭的なものになる。

 かくしてイギリスで清教徒(ピューリタン)と呼ばれる宗派が誕生したが,それは誕生したと同時に,会衆派,長老派,バプチスト派,クエーカー派などの小グループに分裂していった。会衆派は主流派である長老派を批判してより徹底した改革を目指したし,その会衆派の中でさらに急進的な改革を目指したのがバプチストという宗派だった。一方,ルターは「聖職者である牧師が信者を指導するが牧師間の上下関係はない」,というシステムを作ったが,長老派は聖職者でない一般信徒の代表(長老)が教会運営に参加する,という改革をした。しかし,「それでも手ぬるい,人間の精神に宿る霊と神が直接語りかけてくることが重要なのだ,だから教会組織も牧師も不要である」と考える一派まで出現し,それがクエーカー教徒となった。こういうクエーカーの教義まで来ると,一つの宗派として維持できるのか心配になってくるが(何しろ,組織もリーダーも否定しているのだから・・・),本人たちは至極まじめであり,これこそが神とつながる唯一の方法だと信じていたのだ。

 先鋭的といえば聞こえはいいが,ルターのプロテスタントよりさらに急進的になり,要するにカルト集団である(・・・ま,すべての宗教はカルトだ,という言い方もできるが・・・)。イギリスというプロテスタントの最保守の地に急進的カルト教団ができたわけだから,迫害されるのは当然といえば当然である。


 そして,迫害されれば意固地になるのが人情である。迫害されているのは多数派(の宗教)が自分たちの信仰を恐れているからだ,自分たちが正しいからこそ(誤った信仰をする)多数派は迫害しているのだ,と自己正当化するわけである。宗教(特に一神教)とは本質的に,自分の神だけは絶対に正しいということを前提にした思考システムだからだ。だから,迫害されることでカルト集団はより急進的になり,信仰はストイックになっていく。

 そういうピューリタンたちが自分の信仰を守り,理想の信仰生活を送ろうとしたら,唯一の解決策は誰もいない新発見の大陸に揃って移住し,信仰三昧の生活をするしかない。だから彼らはメイフラワー号に乗って大西洋を渡ったわけである。いわば,カルト集団が集団移住して国を作ったようなものだ。そして,信仰する宗派ごとに別々に街を作って集団生活したのだ。それがアメリカの始まりと言える。

 ちなみに,そのようなアメリカでも長い間,バプチストとクエーカーは異端視されて迫害されていたのだから,これらの宗派の教義がカルトの中でもかなり特異なものだったのだろう。


 いずれにしても,カトリックの否定としてのプロテスタント,そのプロテスタントの否定としての新宗派,さらにその否定としての・・・と,新しい宗派ほど教義は極端なものとなり,どんどんストイックになる傾向がある。いわば「ストイック競争」の様相を呈してくる。

 すべての宗教がそうなのか,といわれると困るが,少なくともキリスト教に関して見ていくと,新宗派の誕生は「ストイック競争」であったことは間違いないと思っている。

 このストイック競争は恐らく,キリスト教というより,一神教に特有のものではないだろうか。一神教は要するにこの世を二つに分け,こちらの神が正しくて他の神は間違っている神だ,という考えである。黒か白か,と二分し,曖昧さを許さない思考法である。曖昧さを許さないから,AでないならBしかない,と極端に走りやすい。

 そして,もともと宗教とは自分の信仰対象が正しい,自分の信仰は正しいということを前提にしなければ成立しないものだ。だから,「もしかしたら自分の信じているものは間違っているかもしれない」という発想は絶対に生まれない。しかもそれが一神教なら,「自分の神だけが正しい」ことが大前提なのだ。

 だから,端から見ていると目くそ鼻くそ,五十歩百歩の差異も許せなくなり,微細な違いでも大問題となり,妥協の余地はなくなる。妥協点がないから極端な教義の方がかえって受け入れやすくなってしまう。他との差異を作らなければいけないから,むしろ極端な方が都合がいいのだ。これが,一神教で「ストイック競争」が起こる理由ではないかと思う。