『ピアノの誕生』(講談社選書メチエ,1995年)
私がまだ真面目に(?)ピアノサイトを運営していた頃(もう10年以上前だよ),何度も読み返した本がこれ。ピアノと言う楽器の誕生,発展の様子を,当時の社会情勢の変化,科学技術の進化,政治情勢,さらには西洋文化の変遷など,様々な面から分析した本である。その後,同じような本は出されたかもしれないが,私にとっては忘れられない一冊であり,ピアノと言う一つの「モノ」を軸にするとこういう風に歴史が見えてくるのかと感心した本なので,ちょっと古い本だが紹介させていただこうと思う。
ピアノは楽器界では新参者だ。ヴァイオリンは16世紀に完成し(ストラディヴァリ,ガルネリ,アマティなど),いまだにそれらの音色の秘密は謎のままである。また,クラリネットなどの木管楽器やホルンなどの金管楽器も19世紀には完成して現在の形になり,その後は大きな変化はもたらされていない。しかし18世紀初頭に誕生したピアノは現在でも改良が続けられていて,現在のコンサートグランドよりもさらに音のよいピアノが作られ(形は当然,グランドピアノと似ても似つかないものになっている),新しい可能性が常に追求されている楽器なのだ。そういうピアノの歴史を,18世紀初頭から20世紀中ごろまでの欧米の歴史と重ね合わせて開設しているのが本書である。
本書は「戦争と革命が発展をうながす」,「産業の楽器」,「ヴィルトゥオーソの時代」,「ピアノという夢」,「ピアノ狂騒曲」と5つの章に分けてピアノを様々な面から分析するが,個人的に一番興味を持ったのは最初の2つの章だった。
ピアノが産声を上げたのは1709年で,クラヴィコード(水平に張った弦を下から突き上げて音を出す)やハープシコード(弦を弾いて音を出す)のように鍵盤を持った楽器の一つとして考案された。前二者と異なっているのは「弦を上から叩く」ことであり,発明当初は優れた楽器としては考えられていなかった。
しかし,指で押す鍵盤と弦を叩くハンマーをつなぐ機構に絶え間ない改良が加えられ,18世紀の後半,ロンドンで「イギリス・アクション」が誕生し,同じ頃大陸では「ウィーン・アクション」が別個に考案される。前者は重厚で大きな響きを生み出して鍵盤は重く,後者は軽くて軽快で鍵盤は浅く,作曲家たちはそれぞれのアクションにあった曲を生み出していく。そして,フランス革命でフランスを逃れたピアノ製造家のエラートはイギリスにわたり,イギリス・アクションを元に「ダブル・エスケープメント」という革命をもたらす。鍵盤が完全に戻りきらないポジションからでもまた打鍵できる機能であり,これにより,急速な同音連打が可能になった。リストは当初,ウィーン・アクションのピアノを使っていたが,その後,エラールピアノの熱心な愛好者となり,『ラ・カンパネラ』や『ハンガリー狂詩曲第13番』のフリスカなど,ダブル・エスケープメント機能を最大限に発揮させる曲を作っていった。
そして,1848年に相次いでヨーロッパで起こった2月革命,3月革命がピアノの運命を大きく変える。革命に加担した自由思想家でありピアノ製造者でもあったシュタインヴェグが革命鎮圧後の難を逃れて渡米し,ニューヨークでピアノ製造を始めたのだ。この時,現在でもピアノの最高峰としてたたえられ,多くのピアニストを魅了しているスタインウェイが誕生する。そしてその数年後,ヴェヒシュタイン,ブリュートナーも相次いで新作ピアノを発表し,ピアノは空前の開発競争時代に突入する。
スタインウェイは優れた音響学者でもあり,当時の優れた物理学者との親交も深い科学者だった。その冷徹な科学者の頭脳とわずかな音の違いを聞き分ける類まれな耳が究極のフレーム構造,音響板の構造,調弦方法を生み出し,彼が作り出したピアノの基本構造は現在でもほとんど変わっていない。それほど優れたピアノ製造家だった。
そしてここに,イギリスに端を発する産業革命とその後の技術革命がかかわってくる。
もともとピアノは木製楽器,つまり家具職人が作るものであり,チェンバロやクラヴィコード同様,小さな部屋で少数の人間を相手に演奏されるための楽器だった。もちろん当時は,今で言う「聴衆」ではなく,王侯貴族,その後は文化的パトロンが聞き手だった。木製楽器であるため,弦の張力には限界があり大きな音は出なかったが,貴族もパトロンもそれで不満はなかった。
その後,イギリス・アクションのピアノが発明され,高度な演奏技巧を持つヴィルトゥオーソたちが登場するようになり,オーケストラと丁々発止の華麗な演奏を聞かせるピアノ協奏曲が好まれるようになると,ピアノの音量の不足は明らかなものとなった。そして同時に,市民革命を経て貴族やパトロンが衰退して一般市民が音楽を聴くようになると,「安い入場料で多数の聴衆」を入れる必要が生じ,コンサートホールは次第に大きくなっていく。大きな音が出るピアノはぜひとも必要だった。
そして1823年,アメリカのチッカリング社は鋼鉄フレームのピアノを展覧会に出展し,強靱で光り輝く張りのある音は聴衆を魅了する。ここで,オーケストラにも負けない絢爛豪華な大音量,人間業と思われない高速で繊細なパッセージ,そして夢幻的・幻想的な響きを生み出すソステヌート・ペダルの全てを備えたピアノという新時代の楽器が生まれ,それはスタインウェイにより完成した。同時にそれは,聴衆の好み,そして音楽の流行をも変えて行った。
だが,イギリスのピアノメーカーはその流れについていけなかった。「ピアノは熟練した家具職人が手作りで作るもの」という「常識」にイギリスの職人たちが最後までこだわり,木工職人の名誉にかけて金属を使用することを忌み嫌ったためらしい。しかし,彼らの作る木製ピアノはもはや,市場の消費者には受け入れられなかった。その後,イギリスのピアノメーカーは次々にチェンバロ作成に向かって行った。
一方,アメリカのピアノは次々と技術革新を加えていき,19世紀後半,ピアノは博覧会の花形商品となり,先進国の主要な輸出産業となった。ピアノ製造には高度で精巧な加工技術が必要であり,それを可能にする産業基盤が備わっていることを示すのに絶好のものだったからだ。
と,この本について紹介しようとすると,まだまだ続くのである。例えばこんな具合だ。
- なぜ,19世紀初頭から「エチュード」が量産されたのか,ピアノ作曲家にとって「エチュード」とは何だったのか
- 時代の好みによりピアノ曲のジャンルはどう変化したのか(例:「アルプスの○○」という曲が量産されたのはなぜ,とか)
- 19世紀にブルジョアたちが娘にピアノを習わせるのが流行したのはなぜ
- 『乙女の祈り』が全ヨーロッパでミリオンセラーを続けたのはなぜか
- 「作品1」にピアノソナタが多いのはなぜ
- ピアノ連弾曲は何の目的で作られたのか
- 音楽教育はいかにして産業化されたのか
など,どれもこれも興味深いエピソードが満載だ。なぜショパンの作品1がピアノソナタだったのか,それを知りたければ本書を読めば疑問氷解だ。
いずれにしても,ピアノという一つの楽器を通して近代ヨーロッパの歴史をも詳説する筆者の力量が素晴らしい。
(2009/07/27)
第一章 戦争と革命が発展をうながす
- 1709年,バルトロメオ・クリストフォリがクラヴィコード,チェンバロと異なる楽器,ピアノを考案。1742年,ゴッドフリート・ジルバーマンがピアノを試作し,バッハが試奏している。
- 1770年頃,七年戦争でツンペはロンドンに渡り,ピアノを改良(ペダルを取り付ける)。「イギリスアクション」の基礎を作った。ツンペのスクエア型ピアノが家庭向きであることからドイツで流行。多くのピアノ職人がロンドンへ。
- 大陸で戦乱集結。シュタインが「ウィーン・アクション」を考案(1777年のモーツァルトの手紙で高く評価されている)。シュタインの娘(ナネッテ)婿がシュトライヒャーで,ベートーヴェンは彼のピアノを評価。ナネッテは孤独なベートーヴェンを助力。
- ウィーン・アクションは軽快で鍵盤は浅く軽い。イギリス・アクションは重厚で大きな響きに適していた。二つのアクションの相違は演奏方法だけではなく,音楽そのものの様式の違いになった。ベートーヴェンはイギリス・アクションのエラールピアノを嫌悪していた。
- エラールはイギリス・アクションのピアノを作成。マリー・アントワネットの庇護を受けていたが,革命の勃発とともにロンドンに難を逃れた。ここで1823年にダブル・エスケープメントを完成させ,急速な同音連打を可能にした。
- シュトライヒャーとエラールは互いのアクションの利点を取り入れようと努力。ベートーヴェンに新製品を寄贈し,彼は徹底的にその性能を吟味し,楽器としての可能性を引き出した。ベートーヴェンはピアノのモデルチェンジの推進者だった。「ピアノはあらゆる楽器の中でもっとも研究が遅れ,全く未発達だ」と書いている。彼は楽器の音域にもっとも不満を感じていた。
- 1830年代,グラーフ,ベーゼンドルファーのウィーン・アクションを多くのピアニスト(シュタイベルト,ヘルツ,チェルニー,ウェーバー,メンデルスゾーンなど)が愛好。
- リストは初期にはウィーン・アクションを用いたが,「カンパネラ」の改訂版はエラール(イギリスアクション)ではじめて演奏可能であり,エラールの最大の理解者になった。タールベルクとリストの「決闘」も,イギリス・アクションの勝利を宣言した決闘でもあった。超絶技巧のピアニストの登場とともにイギリスアクションの優秀さが立証された。
- 政治史においてもピアノ史でも1848年が節目になった。
- 1848年,自由主義的思想を持ったシュタインヴェグは革命に荷担し,革命鎮圧後はニューヨークに逃れ,シュタインウェイと名前の読みを変えた。1853年,シュタインウェイ,ベヒシュタイン,ブリュートナーがそれぞれ仕事を始めた「奇跡の年」。
- シュタインウェイは1855年,金属フレームのスクエアピアノを出展。次々と張弦方法,音響板,フレーム構造を工夫。イギリス・アクションを元にハンマーなどのあらゆる部分に渡って実験を繰り返し,1880年代にほぼ完成させた。シュタインウェイは技術者であり科学者であり,合理的思考を持っていた。ピアノ構造の音響学と力学的な分析に関心を持ち,物理学者ヘルムホルツと親交を結び,助言を得た。それまでのピアノ制作は職人の勘で行われていたが,それ以後,新しい時代となった。
- 19世紀後半,万国博覧会にはピアノが出展され,特許と技術のつばぜり合いの場であった。アメリカ製ピアノの優位性が決定的となった。ベーゼンドルファーもプレイエルも金属フレームを採用。
- 1800年ごと,音楽ジャーナリズムの活動が定着。ピアノメーカーはそれを利用して新製品をアピール。有名ピアニストや音楽教師の推薦文が重要な宣伝手段となった。メンデルスゾーントリスとの推薦文が有名。
- 17世紀ですでにヴァイオリンは完成していた。ピアノは現在でも改良が重ねられている。近代産業社会と工業社会の写し絵でもあった。
第二章 産業の楽器
- 18世紀後半,ピアノの原型を作り上げたのはイギリスの工業力。力を弦に伝える複雑な機構,低音弦では弦に弦を巻き付けて強度を高める高い技術,ハンマーの制度など,近代工業の発展なしには不可能。ピアノはあらゆる部分で技術革新の余地があった。
- 19世紀前半の技術では,各部品ごとに手作りメーカーがあり,ピアノ工場はそれを組み立てる工場だった。86%は工員10人以下だった。これは19世紀中頃まで変化なし。このため,生産性も非常に低かった。
- 工業力と技術革新の差がはっきり現れたのは金属材料。弦の素材としては真鍮弦のほか,あらゆる金属が試された。重く重量感のある音質を求めたイギリス・アクションでは,弦の材質は緊急の課題になった。1854年にスティールのピアノ弦が開発される。この年はスタインウェイやブリュートナーがピアノ制作を開始した1853年の翌年。
- 1803年にエラールはイギリス・アクションピアノで初めて5オクターブ半を実現。以後,高音域の拡大(力学的負担が少ない)はされるが,低音域に関しては需要があったが開発は遅れた。ベートーヴェンの「ハンマークラヴィア」ソナタの低音は木製楽器の強度敵限界に達していた。
- 金属フレームは1820年頃に試作されたが,ヨーロッパのメーカーは採用しなかった。金属フレームを採用するかどうかは,メーカーにとって踏み絵になった。エラールは木製フレームを金属棒で補強した。
- 鉄フレームそのものは簡単に作れるが,共鳴板の自然な振動を妨げない構造が求められる。1823年頃,アメリカのチッカリング者は金属フレームのピアノを博覧会に出展。強靱な音と輝く張りのある音質は人々を虜にし,ピアノ製造の流れを変えた。
- 単に頑丈なピアノというだけでなく,人々がピアノに求める音質が変化した。リスト,シュタイベルトなどのヴィルトゥオーソたちの搭乗により,絢爛豪華な音質がことさら求められ,彼らの持てる技術を誇示する場としてピアノ協奏曲が重視されたことも重要。オーケストラに対抗するため,必然的に,光り輝きしかもよく鳴り響くピアノが必要になった。
- 交叉張弦が開発された。音の伝わりがよくなるという利点があった。そして強い強度が求められ,鉄フレームの採用と不可分の関係にあった。
- ヨーロッパの大メーカー(フランスのエラール,イギリスのブロードウッド)は金属フレームに抵抗。音が悪くなるからというのがその理由。エラールは1925年でも勤続フレームと交叉張弦に批判的。保守的思想というより美意識の相違という方が正しいかも。
- かつて最高の楽器といわれたエラールを弾いたマクダウウェルは「どうしようもなく音質と音量を欠く」と言った。美の尺度が変わってしまった。ブロードウッドの旧式ピアノでは,新しいメトードのピアノ教育ができなくなり,イギリスですら音楽学校から締め出されるようになった。
- イギリスのピアノメーカーが木製フレームに固執した理由は音の問題だけでなく,イギリスの国全体の産業や経済の風潮にかかわっていた。熟練技術者が総木製のピアノを信仰した背景には,元来ピアノ製作者は家具職人の出身者が多かったことも反映。市場の消費者にも見放されたのに,木製クレームに固執したのは,鉄枠を組み込むことへの木工職人の嫌悪感があったのでは。
- その後,プレイエル,エラールなどはチェンバロ作成に向かう。
- 1851年ノピアの博覧会では,2500台の生産を誇ったブロードウッドなどのイギリスメーカーが君臨。1870年代になるとイギリス,フランスは勢力を維持していたが,アメリカのメーカーの技術革新に遅れだす。19世紀後半,ベヒシュタイン,ブリュートナー,シュタインヴェクが競争に加わり,激しい価格競争を繰り広げ,1990年代に過剰生産になる。この中でイギリスメーカーは国際競争から脱落。
- ピアノは近代市民社会では最も富を象徴するものであり,国力の象徴。工業力と製品販売力。
- 18世紀末では年間20台程度の生産。1800年代初期になると,イギリスのブロードウッドは年間400台以上生産。産業の近代化の波に美味く乗った。さらに低価格のアップライトの販売に成功した。1850年代になると年間2500台を生産。エラールは1890年に2000台,プレイエルは1910年に2500台。
- ドイツメーカーの成長。1900年には2000台以上を生産する会社が4社あった。1910年には総生産数は10万代になった。
- アメリカは1890年代に爆発的に増加。1880年代まではアメリカは最大のピアノ生産国だったが,輸出以上に国内消費の需要が多かった。一方,ドイツではピアノは輸出品として製造された。
- イギリスは18世紀から自国生産商品を大陸で売りさばいていた。その後,植民地を中心に販路をさらに拡大し,安定した経済活動の基盤を形成。一方,オーストリア,ドイツのメーカーは基本的に販路は国内に限られた。1870年代,ドイツはピアノを輸出産業と規定し,イギリスに積極的に売り込みを開始。1880年代にはイギリスが独占していた地域に販路を求めた。その後,ドイツは廉価で性能のよい製品と,セールスマンを用いた肌理細やかで合理的な販売で,効果で旧式なイギリスピアノを駆逐していった。
第三章 ヴィルトゥオーソの時代
- 19世紀のピアノの革新は手探りだった。だからこそ,ピアニスト,作曲家,聴衆,製作者が理想とするものを新製品に託した。ヴィルトゥオーソはピアノ製造業に取り組むのは当然。
- クレメンティ。実業家であり楽譜出版業も手がける。1798年からピアノ製造。自分自身も弟子たちも実演者として活躍し,販売した。代表的な弟子がフィールド。生産台数は年間50台程度。
- プレイエル。ヴィルトゥオーソとして活躍。1807年にピアノ製造。ショパンが愛好した。1970年まで続いた。
- アンリ・エルツ。1930年までピアノ生産を続けた。エラール社のダブル・エスケープメントを改良したことが最大の功績。
- エチュードの思想。ヴィルトゥオーソたちはピアノをどう操作するか,どのような音楽の世界を導き出すことができるかを考え,「エチュード」という分野に着目。エチュードの発展史はピアノ進化史の影の側面を示す。
- 「グラドゥス・アド・パルナッスム」。クレメンティにとって演奏と楽器製作と練習曲の作曲は三位一体。
- シューマンは各種の練習曲を比較し,練習目的ごとに分類。
- ツェルニー。技巧の細分化は,一定レベルの演奏ができるようになるという実用的目的と,技巧を開拓するという両面性を持っていた。
- エチュードは音楽そのものを体系化しようという潜在的な志向を持っていたようだ。さまざまな様式や形式を盛り込み,全ての長短調を網羅する。
- エチュードは新たな技巧の開拓とともに,ピアノの性能の実験でもあった。その急先鋒がアルカン。
- 音楽愛好家にとっても,エチュードは自分の技術の進度の格好の目安になった。⇒ビューローの「グレード表」
- ハノン(シャルル・アノン)⇒恐怖感にも似た印象は,ピアノそのもののイメージすら決定している。
- エチュードはしばしば,,その作曲者(編者)の「音楽哲学」の表明の場になってきた。とりわけ,子供の音楽教育を目的としたエチュードの場合にはその傾向が強い。これが,ツィーグラー,バルトーク。
- ピアノに対する欲求のうち,技巧面において表象されたのがエチュードであり,機構面においてはペダルがそれに当たる。19世紀はじめのピアノのペダルは3本以上だった。19世紀初頭のペダルと現代ピアノのペダルでは性能があまりにも異なりすぎている。
- 19世紀中ごろのヴィルトゥオーソは絢爛豪華な大音量を求めたが,ベートーヴェンとそれ以前はさまざまなニュアンスに富んだ弱音に美しさを見出していた。当時のピアノには何種類もの弱音ペダルが備えられていた。1本は音を長く引き伸ばすペダルだったが,そのほかは音量や音質を加減するペダルであり,弱音ペダルからは弱音の微妙な音のグラデーションが醸し出され,今日の楽器では作り出せない魅力を持っていた。
- モーツァルトやハイドン時代のピアノでは,指の加減で音量のグラデーションをつけることが楽器の性能上,難しかった。
- ヴァルターのピアノでは,低音と高音域を別々に音を引き伸ばすことができた。ベートーヴェンもそのようなペダルを非常に細かく使い分けていた。
- 「月光ソナタ第1楽章」冒頭の「senza soldini」は「弱音ペダルなしに」ではなく,「サステイン・ペダルを踏みっぱなしで」という意味ではないかという説がある。どちらが正しいかは不明。
- 長音ペダルを備えたピアノの普及こそが,18世紀音楽と19世紀音楽を根本的に区切る一つの重要な要素。「テンペストソナタ」の冒頭の分散和音。
- フィールドは「ノクターン」という新しいピアノのジャンルでペダルの美学を追求。当時のピアノでは高音域と低音域を分けてペダルで操作できたので,伴奏音域のペダルを踏みっぱなしにして演奏しても,右手高音域の音は濁ることなく透明に聞こえた。
- ショパンはフィールド,フンメル,チェルニーの手法をもっとも純粋に受け継いだ。フンメルのノクターン様式とペダル奏法を受け継いだ。ショパンの装飾的パッセージはフンメルに酷似している。
- 19世紀では,倍音をふんだんに効かせた分散和音の効果を高めようと,長音ペダルの夢想的な雰囲気が愛好されたが,その一方で,和音や和声の変化が単調で画一的にやりやすくなる傾向があった。ピアノの強度が増し,強い弦と低音域の弦が張られるようになると,ペダルによって素人の驚嘆の眼差しを狙ったおどろおどろしい効果を出すこともできるようになり,ピアノ音楽はますますショーの要素を増していく。
第四章 ピアノという夢
- 近代市民社会が興隆し,人々が労働の対価として富を蓄積するようになり,農村経済を基礎とした貴族階級に変わって,市民が社会の文化の担い手になっていって過程と,ピアノが浸透していった過程は不可分である。
- ナポレオン戦争後,宮廷は窮乏したが,戦争を財をなした富裕層が生まれ,音楽の新しいパトロン・推進者となった。市民の上流階級志向において重要なのは,彼らの現実でなく,雰囲気だけでもそうした階級の一員でいたいという意識だった。ピアノが浸透したのは,このような「上流階級意識を持つようになった庶民」の間だった。
- 19世紀において,ピアノを持ち,子女にそれを習わせることは,真興ブルジョアの自尊心をくすぐるものだった。かつては値段が高かったが,次第に量産され,廉価になったこともある。彼らにとって,ピアノを持つことは,「客間を持つ」ことと同義だった。
- そしてピアノは,新しい家族像の象徴的存在でもあった。ウィーン体制後,社会が保守的になり,家庭は国家の最小単位とみなされるようになり,「聖家族」という理想が登場する。その家族画の好まれたモティーフの一つが家庭音楽会であり,娘がピアノを演奏するイメージが完成した。
- これを背景に,アマチュア奏者向けの性格小品や連弾曲,編曲の数々が限りなく生み出され,家庭音楽はピアノの新しい巨大市場となっていく。「一般音楽新聞」が毎週発刊され,新譜案内が掲載された。
- ピアノ音楽は近代的流通経済にもっともファッショナブルな形で乗った最初の商品であり,ピアノとピアノ音楽は,近代流通経済の一翼を担っていた。
- ピアノが高価であり,一定に身分以上の特権的所有物であっただけに,ピアノは人々に夢を振りまくものになった。しかも,女性がピアノ演奏ができるかどうかは,彼女の結婚や一家の浮沈にもかかわる問題でもあった。そこから,ピアノが弾けないと一定階級以上の女性として認知されないという心理が働くことになった。
- 中産階級の台頭とともに,ピアノは量産されるようになり,裕福な庶民でもピアノに手が届くようになった。ピアノは娘の良縁と結び付けられていった。
- かつて熱心にピアノを練習した娘は,結婚後ピアノを弾かなくなる。一定年齢を過ぎた頃から急激にピアノの夢は消え,ピアノは塵の積もる無用の長物となった。
- しかし,ピアノは客間のスターであり続けた。恋のアヴァンチュールの予感など,女性にとっても男性にとっても,ピアノは夢を提供した。サロンにはさまざまな人が出入りしたが,最も好まれたのは画家でも詩人でもなく,音楽家だった。
- ピアノ人口での女性の割合の増加を端的に示すのが,19世紀最大のミリオンセラー,『乙女の祈り』。どのくらいの楽譜が売れたのか,海賊版がどれほど出たのか,各種編曲譜の出版はどうだったかは,全く不明。全世界で80以上の出版社から刊行され,19世紀の一つの社会現象となった。この曲はかつて「セックス・アピール」と評され,サロンで演奏する女性の結婚願望の象徴とみなされた。
- 女性は絵心,ピアノ演奏,裁縫,文学の知識を持つべきだが,どの分野でも過度に専門的な能力や知識を持つことは好ましくない,というのが常識だった。このため,平易で当たり障りのないサロン風の音楽が好まれ,量産された。ピアノ演奏をする女性はサロンの花となった。
- 19世紀前半,レパートリーは急激に変化。
- 1820年代を過ぎるとピアノ音楽の中心を占めたピアノソナタは急速に人気を失い,レパートリーから消える
- ソナタは19世紀前半から意味が変わり,古典的教養とほぼ同義になり,作曲家はデビューする際に教養をつんだ証として,作品1をピアノソナタで飾った。コンクールで出展するのもピアノソナタで,「作品一ソナタ」「賞金ソナタ」と呼ばれた。ソナタは「1790年代のスタイル」で作曲されるのが常だった。ショパンが1839年にソナタ第2番を作曲したのは事件だった。
- ジャンルによる男女の棲み分けが生じた。本格的なピアノソナタは男性が弾くべきもので,女性が演奏すべきジャンルでないという風潮。女性の曲目は舞曲,アリアや民謡による変奏曲,性格小品(ワルツやノクターン)に限定。
- 1818年,変奏曲が40%,ソナタが35%だったが1823年には変奏曲が50%を越した。1840年以降はポプリ,行進曲,性格小品が台頭。
- 19世紀,女性が弦楽器や管楽器を演奏することは禁じられていた。唯一女性に許されていたのは声楽とピアノのみ。このため,1870年代には音楽学校のピアノ科は「女性の園」と化した。ウィーン音楽院ではピアノ専攻生のうち女性が87%を越していた。
- 裁縫と同じレベルのしつけだったピアノ教育が,結果的に女性の社会進出の突破口になった。ゲヴァントハウスの演奏会の回数では,最も多いのがクララ・シューマンだった。演奏会外にも女性のピアノ教師も増加。
- 楽器の普及率から言えば,ピアノより演奏の容易なギター・フルートの方が広く普及していた。フルート・ギターは家庭内の楽しみとして演奏するが,ピアノは常に他者の存在を前提にしていた。演奏者の自己顕示欲を満足させる楽器だ。
- 19世紀のピアノ曲は明らかな流行の原理に基づいている。
- 1820年代になると半分以上が変奏曲で占められ,それとともにファンタジーが流行。シューベルトも野暮ったい「ソナタ」でなく「ファンタジー,アンダンテ,メヌエット,アレグレット」としてソナタ第18番は刊行された。「さすらい人幻想曲」も同じ。カルクブレンナーはファンタジーで売り出した。
- 1840年代前半には「ロンド」「ポプリ(名旋律のメドレー)」が流行。1840年代後半には「行進曲」が大流行。これには1848年の革命が関与。ワグナーも旗を持って立ち上がった革命であり,勇壮で男性的な音楽が求められた。革命が沈静化すると行進曲は人気を失い,1850年代には連弾曲がサロンの寵児となる。
- 一台のピアノに二人で座るのは演奏形態として不都合。1760年代まで連弾曲はなかった。連弾最初の曲はモーツァルトで,1770年代に入ってから徐々に見られるようになった。
- 19世紀にはいると連弾は急速に増加。一方はやや難しく,もう一方は初心者でも演奏できるように作曲されているのが通例。音楽のアマチュアがサロンで演奏するのが目的。上の人と下の人の指が微妙に交差するような工夫もされていて,特に男女で演奏する場合,これほどサロンの目的にかなった社交道具はなかった。
- ブラームスの「ワルツ集」,「愛の歌」が爆発的に流行。「ハンガリー舞曲」も流行の動向を見抜いている。東欧趣味が19世紀後半からウィーンの人気商品になりつつあった。その後,ドヴォルザークの「スラブ舞曲」が大ヒット。
- その社会の時流に合わせて,受ける要素を混ぜ合わせたブレンド商品ができる。しかしほとんど独創性のない,楽しさだけで口当たりのよい一過性の作品が楽譜屋の店頭を飾り,大量消費された。
- 女性がサロンで本物のバッハやヘンデルを演奏するのは好まれない。ショパンは演奏したくても困難。だから,これらの雰囲気を満載したキッチュが作曲される。ショパンの雰囲気を醸し出してくれるノヴァコフスキーなどが好まれた。
- 19世紀のピアノ曲は暗黒大陸。消費財として作曲され,出版されたため,役割を終えると18世紀のように公共図書館に収められることはなく,廃棄された。当時の多くの人にとって,サロン小品は文化財でなく消費財であるという意識が強かった。
第五章 ピアノ狂騒曲
- ピアノの需要と供給の関係は,多くの関連する仕事を生み出した。特に重要なのはピアノ教育関連の仕事。多くノピアの教師が生まれ,多くの初心者向けの各種の練習曲も生み出された。ピアノはいわば音楽産業を作り上げた。
- ピアノ教育は次第に情操と精神の教育の手段として,親にも教師にも浸透。中産階級が子女に音楽教育を課したのはサロンで娘を披露することだけでなく,総合的な教育の重要な要素としてだった。
- ピアノのレッスンを継続する年限から見ると,人口分布は底辺が無限に大きな三角形になる。圧倒的多数は初心者で,親の意向がその教育に強く反映される。
- 音楽学校が開設され,毎年多くのピアノ専攻生が卒業した。ピアノ教師は芸術を媒介する存在でなく,一つの職業という色彩が強くなる。1830年代から職業ピアノ教師が増加。
- 19世紀ノピアの大量販売時代に,上達を促す教育機器が登場。ピアノでは指の鍛錬器具や矯正器具が脚光を浴びる。
- ピアノが精神修養の場であり,しつけの道具となる。ピアノの上達を促すとともに,子供たちを精神的に拘束し,人格を形成・鍛錬する傾向。エチュードにより勤勉さを教え込む。
- 親たちの虚栄心。自分の子供を天才,神童にしたい。