どのようにして「ドレミファソラシ」という音階が作られたのかについての読み物であるが,内容はかなりハードで,中身は音響物理学そのものであり,音楽を扱っているのに情緒的な要素は皆無で,ガチガチの理系の書物である。それもそのはず,著者の本職は核融合やプラズマ研究の専門家で,ジャズ演奏を趣味にしていることから本書が企画されたようだ。
ちなみに本書の「まえがき」には「ただし,今回はブルーバックス編集部の注文により,数式は全部削除されてしまったのは残念」と書かれているから,最初の原稿は多分,数式だらけだったと想像される。こういう「まえがき」もちょっと珍しいが,もっと数学的に厳密に説明したかったのに・・・という無念さが伝わってくる「まえがき」でもある。
さて,音楽について興味がない人でも,音楽が「ドレミファソラシ」の7つの音でできていることを知っているはずだ(もちろん,半音まで入れると12だが)。しかし音楽の専門家でも,なぜこの7つなのかをきちんと他人に説明するのは結構大変である。私も一応知っているつもりだが,きちんと説明する自信はない。
なぜ音階は7つの音でできているのだろうか。8つや9つの音でいけない理由はあるのだろうか。「ド」と「レ」の音の間には無限の音があるが,なぜその間には「ドのシャープ(=レのフラット)」しかないのだろうか。そもそも,連続的に変化する音の中で「ド」や「レ」が選ばれた理由は何だろうか。色ならばそれこそ無限の色が使えるのに,音楽はなぜ7個(あるいは12個)の音しか使わないのだろうか。
このように考えると,音楽は文字に似ていることに気がつく。たとえば日本語は50音だ。つまり50の音しかない。しかし,日本人の声帯が出せる音は50個だけではないし,日本人の耳が聞き取れる音が50個だけというわけでもない。これは他の言語でも同じである。無限にある「口から出せる音」の中から幾つかの音を選び出して話し言葉と書き言葉を作り上げたのだ。
要するに,言語も音楽も「連続して変化するもの(=アナログデータ)から特定の要素を取り出した」ものであり,一種のデータのデジタル化ということができる。このあたりは,絵画における色と全く違っている。色は無限にあり,その全ての色が連続的に使え,これはアナログデータそのものである。
なぜ,音楽はたった7つの音で成り立つ音階を受け入れたのか,なぜその7つの音が選ばれたのか,そして,その7つの音で作られた音楽がなぜ私たちの耳(そして脳)に快いのかを極めて明快に,そして可能な限り科学的に説明するのが本書である。詳しくは本書を読んでいただきたいが,このような疑問を一度でも持ったことがある人にとっては,素晴らしい一冊になると思う。
現在の音階の基礎を作ったのはあのピタゴラスだ。彼は弦を弾いて出る音を観察し,弦の長さを半分にするとオクターブ上の「ド」の音が出て元の「ド」と最も協和し,2/3にすると「ソ」の音が出てこれも「ド」と協和することを見出す(「ド」と「ソ」のそれぞれの整数倍音の多くが一致するためである)。そして彼は,「ソ」の音と協和する5度上の「レ」,「レ」の5度上の「ラ」,「ラ」の5度上の「ミ」・・・と12個の音を見つけ出した。これが1オクターブを構成する12の半音だ。ちなみに,ショパンの「前奏曲」はこの順に全ての調性が登場させることは有名だ。
この音列で12番目に登場するのが「ファ」である。そして「ファ」の5度上の音が「ド」であり,これは最初の「ド」と一致しなければいけない。ところがなんと,この「ド」は最初の「ド」と微妙に周波数が異なるのだ。理由は「2と3はどちらも素数だから」であり,「ド」と「ソ」の周波数比が有理数でなく無理数であることが原因だ。つまり,最も協和する音同士を取っていったのに,一周りすると協和しなくなるのだ。直角を4つ合わせると360度になるはずなのに,そうならなかったようなものだ。
これでは困るので,どこかで誤魔化すしかない。ピタゴラスは「2.02729…=2」と近似することでこの「オクターブ問題」を回避した。これは「1日=24時間」としているが正確には24時間ぴったりではなく,それを補正するために4年に一度閏年が必要になったのと同じだ。だが,近似計算は近似計算でしかなく,厳密なものではない。
ピタゴラス音律は極めて論理的に作られているが,この「一周すると出発点と一致しない」という問題と「ド」と「ミ」が美しく響かないという二つの欠点を内包していた。この「ドとミ問題」を解決したのが純正律だ。
ピタゴラス音律も純正律も和音の響きは美しいが,致命的な欠点があった。転調に対応していないことだ。転調した途端に響きが全て不協和になってしまったのだ。何しろ純正律では半音の周波数比が音によって違っていて,「広い半音」と「狭い半音」があるのだ。もちろん,ある調性で和音を美しく響かせるために必要な設定なのだが,別の調性になると「広い半音」と「狭い半音」の位置が逆転してしまうため,響きは汚くなってしまうことは避けられない。
これは例えて言えば,昼の風景を描くのに最高の絵の具を集めたら美しい昼の絵が描けるようになったが,その絵の具では夜の風景が書けない,というようなものだ。
この「転調問題」を解決したのが平均律だ。これは12の音の周波数比を一定にすることで全ての半音を均質化し,それによってどんな調性にも転調できるようになった。もちろんこれは大いなるメリットだったが,主音に対するその他の構成音の周波数比が整数比からずれてしまった。「周波数比が整数比の音は美しく協和する」という大原則から外れてしまったために,平均律は響きの美しさを失ってしまったのだ。自由な転調を得た代償として響きの純粋さを諦めたのが平均律なのだ。
本書はこのような基礎的な話から始め,「より響きの美しい平均律」としての16音平均律や17音平均律の試みや,「音階の区切りはオクターブでなくてもいいはずだ」という「非オクターブ系音律」の試みなどまで紹介されていて,興味は尽きないのだ。ちなみにこれらの音律による演奏はインターネットで試聴できるらしい。
調性の不思議さといえば,短調の音階の不自然は小学生の頃から感じていた。何しろ,イ短調の音階だけでも「自然短音階,和声短音階,旋律短音階」の3種類があるのだ。
そういえば,独学で和声学を勉強していたころ,音程の数え方の非論理的な命名法には閉口したものだった。何より,同音を「1度」とする数え方は絶対におかしいと思った。この点について本書は「ゼロの概念がない」と批判していて,とても納得がいくものだった。やはり,オクターブの間に音が7つしかないのに,それを「8度」と呼ぶのは数学的ではないのだ。理系人間だったら,これを「8度」と呼ぶのは躊躇するはずだ。
恐らく,音大卒業生とか音律・旋法マニアには物足りない内容かも知れないが,それ以外の音楽ファンには「目ウロコ本」の一つだと思う。特に,平均律とか純正律に興味を持ったことがある人には絶対のオススメ本である。
(2010/04/08)