『「怖い絵」で人間を読む』★★★(中野京子,NHK出版生活人新書)


 「絵は鑑賞するものではなく“感じる”もの」というのが今の流行である。一瞬,なるほどなと思ってしまうが,これは無茶ではないかと思う。絵画にしろ彫刻にしろ音楽にしろ歌舞伎にしろ,それを見て「感じる」ためにはそもそも前提となる知識が必要であり,それらなしにはそもそも鑑賞すらできないからだ。

 例えば,『ドン・キホーテ』を読むなら16世紀後半のスペイン社会を知っておいたほうがいいし,『東海道中膝栗毛』を正しく鑑賞するためには19世紀初頭の江戸文化についての知識が必須だし,明治時代の風俗や風習を知らずに『坊ちゃん』を読んでも理解不能な部分があるはずだ。これらの作品は同時代の人に読んでもらうことを目的に書かれ,同時代人にとってそれは「常識」であり,彼らに説明は不要だからだ。しかし,時代が移れば常識は変化する。書かれた頃には常識でも,その後なくなってしまったものもある。そしてそういう「失われた常識」が鑑賞の妨げになるのだ。


 もちろん,これは絵画でも同じだ。絵画にもさまざまな「その時代の暗黙の了解」があるからだ。

 なんの予備知識もなしに美術館に行っても,「なぜ,17世紀になっても古代ギリシャやローマ神話の神様の絵が多いのはなぜ?」,「なぜ古い時代の絵には遠近法がないのか?」,「なぜ,王侯貴族の肖像画だけが並んでいるのか?」・・・という疑問にぶつかるはずだ。そして,同じ時代の絵画を集めた部屋に行くと,同じようなテーマの絵ばかり並んでいてすぐに飽きてしまうはずだ。

 しかし,19世紀の初めに写真が登場する前の時代では,肖像画,特に未婚の男女の肖像画は見合い写真だったという知識があると,詰まらない絵が面白くなってくる。何しろ,20歳になっても結婚しない(できない)女性はそれだけで「何かおかしいんじゃないの?」と言われる時代だ。描かれる方も必死になって着飾るわけだし,実物より2割増くらいにきれいに書いてくれる画家でなければ食っていけなかったのだろう。

 遠近法が常識の時代から見ると,遠近法がない絵は幼稚に見えるが,「遠くの人間も近くの人間も同じ人間。同じなら同じサイズだ。なら,同サイズに描くべきだ」という「常識」に縛られていたわけだ。「確かにそれはわかるんだけど,でも,目で見ると遠くの人間の方が絶対に小さいんだよなぁ」とぶつくさ言いながら描いていた絵かきの様子が目に浮かんでしまう。


 本書は,そういう「描かれた同時の常識・暗黙の了解」を説明し,さらに,その絵画が描かれるに至った歴史的背景を踏まえ,さまざまな西洋絵画をその内面に迫りながら解説していくのだ。まさにそれは第一級の推理小説に匹敵する面白さだ。

 本書は運命,呪縛,憎悪,狂気,喪失,憤怒,陵辱,救済の章に分けられ,それぞれふさわしい絵画が紹介され,その背景が説明されている。


 例えば本書の表紙,これは「運命」の章で取り上げられている,2歳くらいの子供の肖像画である。目が大きく色白のかわいい幼子なのだが,どこか生気に欠けて疲れているような感じが見て取れる。その「疲れ」は決して遊び疲れての疲れではなく,生気の抜けたような様相なのだ。そして何より,脇に置かれた椅子の背もたれの手が不気味だ。だらんと力なく置かれていてまるで死者の手のようであり,少なくともそこらを元気に走り回っている幼子の手ではない。

 絵のモデルはスペイン・ハプスブルク家にようやく生まれた待望の王子のプロスペロ,そして描いたのは世紀の巨匠ベラスケスである。スペイン・ハプスブルク王朝は当時,「太陽の沈まない国」であった。世界中に植民地を持っていたからだ。まさに,世界を征服する勢いの王家であり,ヨーロッパの名門中の名門だったのだ。その「名門」を支えてきたのは「高貴なる青い血」だったが,その「青い血」へのこだわりがやがて,日の沈むことのなかったスペイン・ハプスブルク王朝を破滅に誘っていく。死人のような顔と手をした2歳になったばかりのプロスペロ王子がこの王朝の未来を告げている。そして,ベラスケスはそんな幼子の姿を描きながら,王朝の悲惨な末路まで描いてしまったかのようだ。血へのこだわりがやがて血に復讐される悲劇と愚かしさがこの1枚の肖像画に込められている。


 あるいは「憤怒」の章の冒頭で取り上げられている『イワン雷帝とその息子』の異様なまでの迫力と迫真性。イワン雷帝は癇癪持ちで些細なことで怒りを爆発させることで知られていた。しかし彼は皇帝であり,誰もそれを咎めることができない。そして,自分の権力を示すためにも一度暴発した怒りを収めることはできず,怒りに任せた行動はとどまることを知らなかったらしい。そしてその怒りは長男である皇太子にも向けられた。体調がすぐれず,公式行事に略装で出席した皇太子の行動がイワン雷帝の怒りを買い,杖で頭部を打ち据えてしまったのだ。そして皇太子は宮殿の床に倒れる。はっと我に返ったイワン来ての目に入ったのは,こめかみから大量出血する息子の姿。慌てて息子を抱き上げるが,時すでに遅し。皇太子はすでに死神の手に委ねられていた。そういう恐ろしい情景を描いたのが,このレーピンの絵画である。こういう背景を知った上で改めてレーピンの絵を見返すと,その恐るべき迫真性に息苦しくなってくるほどだ。

 あるいは,後のピョートル大帝と彼の姉ソフィアの権力闘争の凄まじさを描く『皇女ソフィア』の迫力。権力闘争に敗れた彼女は部屋に幽閉され,その窓には味方の銃兵隊長の死体が見せしめのために吊るされている。しかし彼女は意志はまだ死んでいない。憤怒のソフィアはその窓の前に仁王立ちし,絵の向こう側からギロリと睨みつけてくるのだ。その視線の鋭さと双眸に込められた凶気にも近い怒りは,見るものを震え上がらせる。そして,彼女の真一文字に固く結ばれた唇は,今にも,「あの忌々しい弟め。あと一歩でお前の死体を窓に吊り下げてやったのに!」と呪詛の言葉を吐きそうだ。


 この本が描こうとする「怖さ」とは,怪物や死霊の恐ろしさではない。本当に怖いのは人間なのだ。神にも天使にもなり,悪魔にも怪物にもなれるのが人間なのだ,とこれらの絵は語りかけてくる。


 なお,中野京子氏の文章のうまさは特筆ものである。とりわけ,ヨーロッパ王室の複雑怪奇な家族関係(何しろ血族結婚のオンパレードだ)を文章だけで読み手に説明する手際の良さは見事だ。

(2010/09/29)