『働かないアリに意義がある』(長谷川秀祐,メディアファクトリー新書)★★


 以前,「働きアリの7割は巣の中で何もしていない。それどころか1割は生まれて死ぬまでほとんど働かない」というのを知って心底驚いたものだ。何しろアリと言えば「アリとキリギリス(ちなみに原作では「アリとセミ」)」で賞賛されるほどの働き者であり,いわば昆虫界の二宮金次郎である。その働きアリが本当に働いているかを研究した人たちがいて(それが本書の著者のグループである),アリの巣の中の膨大な数のアリに一匹一匹マーキングして区別し,一匹ごとにどれだけ働いたかを調べたのだという。文章で書くのは簡単だが,想像を絶するほどの過酷な研究である(実際,研究者の一人は研究中に体調を崩されたそうだ)。その結果,「アリの巣のワーカーの7割は働いていない」ということが明らかにされたのだ。

 怠け者の働きアリがいる,というだけなら一口メモに過ぎないが,実はそれが,アリが高度な組織的社会を維持してきた生き残り戦略の本質だったことがわかったのである。これだから科学は面白い。


 アリの巣は女王アリと働きアリ(ワーカー:雌),そして少数の雄アリで構成されていることはよく知られている。このうち,雄アリはほとんど役立たずの居候みたいなもので,実質的には女王アリとワーカーで成り立っているようなものらしい。一方,女王アリの仕事は卵を生むことであり,ワーカーは次のような仕事をしている。

  1. 卵や幼虫の世話
  2. 巣穴の保守点検
  3. 餌探しと見つけた餌の搬入

 このうち,常に行わなければいけないのは「卵の世話」である。何しろ,巣穴はカビにとっても生育しやすい環境だから,四六時中,卵表面を舐めてカビを取り除かないとすぐにカビてしまい,卵は死んでしまうのだ。そうなったら巣穴はやがて全滅する。もちろん,巣穴の保守点検も餌探しも休むわけにいかない。


 しかし,アリの巣穴に指令官も中間管理職もいないのだ。女王アリは卵を生むだけで,ワーカーに指令を出しているわけではないからだ。つまり,司令官も下士官もいない軍隊,社長も中間管理職もいない会社みたいなものだ。それなのにアリの巣穴はそれで見事に運営されているのである。要するにアリの巣のワーカーたちは,「卵のお世話をした方がいいのか,巣穴の補修をしたらいいのか,餌探しに外回りに出た方がいいのか」を自ら判断し,「卵の世話にすぐに100匹必要」とか「餌探しに10匹必要」という情報を自ら処理して動いているのである。

 ところが,アリの脳味噌は極めて小さい。「針の頭ほど」という言い方があるが,アリの脳は「針の頭より小さい」のである。当然,アリの脳を構成する脳細胞の数も人間からすると驚くほど少なく「微小脳」なのである。コンピュータで言えば記憶装置(HDDやSSDなど)が極小サイズであり,そこに組み込めるプログラムのサイズもまた極小にするしかないのだ。つまりアリたちは微小脳にあらかじめ組み込まれた極小サイズのプログラムで,人生(?)で出会う全ての問題に対処し,なおかつ高度な社会を維持しなければいけないのだ。


 それが「ワーカーの7割はほとんど仕事をしない」という解決法だったのだ。詳しくは本書を読んでほしいが,実に見事な戦略である。なぜかというと,均質な能力を持つものが一斉に仕事に取りかかる方式は「仕事が決まっていて指令官がいる」場合には最適解だが,「仕事が変化し指令官もいない」場合にはすぐに行き詰まってしまうからだ。様々なタイプの怠け者(=反応閾値が異なる)が混在しているからこそ,ワーカーはあらゆる出来事に柔軟に対応でき,アリの巣は完璧に運営されるのだ。まさに,驚くほどシンプルで驚くほど完璧なアルゴリズムである。

 その他にも,「コロニー内の裏切り者(cheater:チーター)」という観点から,経済のグローバリズムの根本的な問題点を指摘している部分なども秀逸である。チーターがいても総体としてのコロニーが安定して続くのは,チーターの移動性が限定されている場合だけだ,という指摘は鋭いと思う。
 要するに,経済のグローバル化とはチーターがどこにでも逃げ出せるシステムなのだ。だから,グローバル化社会にあってはコロニーは安定した状況を取れなくなってしまう。恐らくこれが,グローバル経済が内包する根本的矛盾点ではないだろうか。

 さらに,最終章にあった「理論には必ず前提とする仮定があるので,仮定が成り立たない場合,その理論は役に立たない」という指摘も我が意を得たり,と膝を打った。専門家ほど,そもそも仮定があって理論が成り立っていることを忘れがちで,仮定を「無条件で成り立つ前提/自明の理」と誤解してしまうからだ。


 「働きアリの7割は働いていない」のはなぜかを知るためだけに本書を読んでも,十分に面白いと思うしもとが取れると断言する。だがそれ以上に,科学全般に通じるエッセイ部分がさらに面白い。これぞ良書である。

(2011/01/05)