書店の平積み台でこの本のタイトルを見た瞬間,「これは面白そうだな」と思い,「よく,こんな面白い視点を見つけたもんだな」と感心した。それと同時に,このタイトルが示す内容でどうやったら新書1冊のページ数が埋められるんだろうかと,他人事ながら心配になった。なぜかというと,新書1冊分の文字を埋めるためにどのくらいの文章が必要かを知っているからだ。常識的に言えば「原稿用紙100枚」くらいでは全く足りず,写真やイラスト,グラフを満載するとしても,原稿用紙200枚以上は必要なのである。
そういう「本の書き手サイド」の興味もあり,本書を手に取ってみたわけだが,とても面白かった。少なくとも,私が知らない情報が満載だった。
例えば本書は冒頭から,「畳の上で坐るといったら正坐に決まっている。正式の場では正坐を崩すのは不調法」という「現代人の常識」を木っ端微塵に打ち砕いてくれる。何しろ,茶の湯の祖である千利休の肖像画で彼は正坐していないし,四代将軍家綱時代の将軍家茶道師範の石州は「正しい坐り方は立て膝である」と書き記しているのである。最も立ち居振る舞いにうるさいはずの茶の湯で最も規範となる偉い人が正坐していないのである。
それどころか,平安や室町の貴族も戦国武将も僧侶も,誰ひとりとして正坐していないのである。彼らは公式の場では胡坐をかき,ちょっとくつろいだ場では立て膝をしているのである。そして,江戸時代の武士達は主君を待っている時は踵坐(今日でいうヤンキー坐り)をしているし,庶民が仕事をする時はヤンキー坐りか立て膝姿なのである。
日本家屋は古来から板敷だったり畳敷きであり,椅子はなかったので直接床に坐るしかなかった。そのために腰にも腹部にも負担がなく,すぐに次の動作(例:立ったり歩いたり)に移れる坐り方が自然に選択され,それが立て膝でありヤンキー坐りだったのだ。
だが,江戸時代になり,武家の儀礼が儀式化・マニュアル化されるにつれ,正式の姿勢は「胡坐」から「端坐(=正坐)」に変化した。戦乱の世が終わり太平の世になったことを示すために大名たちは将軍の前で端坐することを求められたのだ。
しかし,大名が将軍の前で端坐するようになっても,それは民衆の習慣にはなっていなかった。それどころか,この時代になっても茶の湯の正式の姿勢は立ち膝だったのである。庶民,特に女性が端坐することになったのは実は,反物の規格(寸法)を江戸幕府が大きく変えた結果だったことを本書は明らかにする。反物の規格(サイズ)が変わったため,それが当時の人間の立ち居振る舞いを変えたのだ。
そして明治に入り,明治政府が礼法教育に力を入れたため(その理由は本書を読めばわかる),そこで小笠原流の作法が主流となり,小学校教育の場を通じて端坐が普及することになる。しかしこの時点では「正坐」という言葉は使われておらず(夏目漱石の小説には正坐という言葉は登場しない),それが普通に使われるようになったのはそれから30年後なのである。この間,どのような意識の変化が起きたのか,というあたりの事情も非常に面白い。
「坐る」という人間の基本動作を軸に,日本の歴史を俯瞰するだけでこんなに面白い本が書けるということに感心した。やはり,本や研究はアイデア次第である。こういう「未知との遭遇」的な本に出会えるのは本当に楽しいものである。
(2011/02/24)
ちなみに,以下は蛇足である。読み飛ばすか無視していただいていい。
うがった見方をすると,「日本人の坐り方」だけで新書一冊を埋めるのはさすがに本書の著者の博識をもってしてもちょっと無理があったようだ。研究論文数編分には十分過ぎる内容だが,書籍一冊分には足りなかったような感じなのだ。具体的にいうと,第2章から第5章までと第7章は「日本人の坐り方」という内容で統一されているが,第6章の「坐禅,ヨーガにおける坐位の形」の章はそれからちょっと外れた内容となっているからだ。おそらく,第2章から第5章までと第7章が一気に書かれ,その後,ちょっと時間をおいて第6章が書かれ,最後に第1章が書かれたんじゃないかと想像する。編集者から企画が持ち込まれてから脱稿までに3年を要したとあるのはそのためではないかと想像する。
そして,著者の方に失礼覚悟で書けば,第6章はページ数を調整するために追加された章であろう。第2章から第5章までと第7章は明らかに「学術論文を平易に書き直したもの」であって,文体は統一されているからだ。しかし,第6章では「坐禅とヨーガ」が扱われていて「日本人の坐り方」とは直接関係がないし,内容も「筆者自身が坐禅を組んでみて得られた体感,ヨーガを実際にしてみてわかった感覚」と,学術論文的な内容からかなり離れていて,それに併せて文体も学術論文然としたそれ以前の文体と微妙に異なっているからだ。