『大腸菌ー進化のカギを握るミクロな生命体』★★★(カール・ジンマー,NHK出版)


 生物学関係でこれほど面白い本は久しぶりだ。E・コリ(大腸菌)だけで300ページを越す大著が書けるということ自体が物凄いことなのだが,とにかく情報量が圧倒的だし,その膨大な情報を手際よく読者に提示していく手腕も唖然とするほど見事だ。生物学や細菌学に興味を持っている人なら絶対に読んだほうがいい。それまで気がつかなかった生物に対する様々な観点に気付かされ,生物についてより深く考察するきっかけになるはずだ。

 ちなみに本書では,生物としての大腸菌,進化論の実験台としての大腸菌,様々な薬を生み出す生物工場としての大腸菌,そして宇宙生命体の可能性を示す大腸菌・・・と様々な面から取り上げていく。まさに博覧強記であり,壮麗な知の殿堂といった趣さえ漂う堂々たる書である。


 例えば,大腸菌の代謝について炭素を例にとって説明し,それが「超ネクタイ型」のシステムであり,インターネットのデータの流れと同じであると説明するところは非常に面白い。炭素は様々なルートから入り込むが,やがて「結び目」に集められ,その後,それぞれの用途に分かれて出力される訳だが,これがまさにインターネットなのである。
 つまり,個々のパソコンのデータがプロトコルに従うコードに変えられ,それがサーバ,そしてルータという「結び目」に集められた後,今度はルータを通り,個々のパソコンにデータが伝えられる。これがインターネットである。この構造のおかげで,どこかの経路が不具合を起こしてもネットワークの機能は維持され,データは安全に安定して送れるのだが,大腸菌も代謝系の遺伝子に突然変異が起きても他の代謝経路が使えるため,大腸菌が死ぬことはないのだ。

 もしも,個々のパソコン同士が繋がれてデータをやりとりしているシステムだったらどうなっていただろうか。考えただけでとんでもないことになったことは想像できる。パソコンが一台増えるたびに世界中のパソコンとの連絡経路が増えてしまうため,メンテナンスもできなければ,障害に対応することも不可能になる。同様に,大腸菌が用途ごとに代謝系を独立させていたら,突然変異が起こるたびに死滅してしまうのだ。


 あるいは,「大腸を持つ動物が出現する以前の時代,大腸菌はどのように生きてきたのか?」という私の素朴な疑問に対してもこの本は教えてくれる。そしてそれは,38億年の地球上生命体の歴史そのものなのである。

 大腸菌の先祖は,バイオフィルムの中で「炭素のゴミ拾い」をする事で何とか細々と命を繋いできた生物だった。しかし,25億年前に地球は大災厄に見舞われる。光合成細菌という新顔生物が酸素を排泄したため,大気が「酸素という猛毒」に満たされたのだ。これにより,それまで還元的環境だった地球環境は一気に酸化的環境に激変してしまう。このため,生存に欠かせない鉄原子は酸化されて沈殿して不足し,おまけに酸素と結合した鉄はDNAを破壊するようになった。

 ここで大腸菌は酸素を利用する代謝系に切り替える術を学び,酸素の毒から身を守る遺伝子を獲得する。同時に酸素は真核生物(=ミトコンドリアを持つ生物)を生み出したが,この新しい生物は細菌にとって捕食者となった。それに対抗するため,大腸菌の祖先は真核細胞に対し新たな戦略を開拓していく。

 やがて時は流れ,6,400万年前の「恐竜絶滅⇒鳥類と哺乳類の時代」へと移る。この時,大腸菌の祖先はサルモネラの祖先と袂を分かち(=ゲノムが分離し),前者は新たに地上の覇者となった温血生物の消化管という安住の地,新大陸を発見する。大量の有機物が常に腸管内にあり(何しろ,恒温動物は体温を維持するために常に大量の食物を食べる必要がある),温度が一定している温血生物の腸管はまさに楽園であった。


 そしてさらに,遺伝子組み替えの実験生物としての大腸菌は,生物が生態系で生きるとはどういう事かを教えてくれる。
 現在,大腸菌の培地はヒト・インスリン,ヒト・成長ホルモンなお数多くの治療材料や医薬品を生み出す工場となっている。もちろん,遺伝子組み替え技術によりヒト・インスリン作り出す遺伝子を導入された大腸菌が培養タンクで大量に培養され,次々にインスリンなどを作り出しているおかげだ。

 しかし,遺伝子組み替え技術が開発された1970年代,全米科学アカデミーなどでは深刻な議論が続けられていた。

人間が作り出した大腸菌が環境に逃げ出し,互いに遺伝子をやりとりすることで恐ろしいモンスターに変身してしまうのではないか,という議論だった。もしも,インスリン産生大腸菌が人体に入り,そこで大量のインスリンを産生を続けるとインスリンショックによる低血糖症を起こしかねないし,ガンを発生させる可能性だってある。

 しかし,すべて杞憂だった。ヒト遺伝子を組み込まれた大腸菌は自然界では生きられず,急速に消滅していったからだ。
 なぜ,ヒト遺伝子を持つ大腸菌は死滅したのか。それは,インスリンを作る能力も成長ホルモンを作る能力も,大腸菌が生きていく上で必要な機能でなく,インスリンを作るために大腸菌は大量のエネルギーを使ってしまい,他の細菌と競合せざるを得ない自然界では他の細菌に容易に凌駕され,生き延びられなかったのだ。

 同様に,遺伝子を組み込んだ大腸菌がインスリンを作り始めた当初に考えられていた「今後30年後に糖尿病患者はいなくなり,すべての病気は大腸菌が生み出す薬やタンパク質で克服されるだろう」という予想もまたはずれてしまった。病気は人為操作したタンパク質を導入して治るような単純なものではなかったのだ。
 しかも皮肉なことに,インスリンの産生量,消費量が増加するのに歩調を合わせるように,患者数も増えていった。遺伝子組み替えトウモロコシから安価なコーンシロップが作られ,それが新たな糖尿病患者を生み出したからだ。


 このような良書であるが,唯一不足気味なのが腸内常在菌としての大腸菌についての記述である。もちろん,どのようにして新生児の腸管に潜り込むのか,腸内細菌叢はどのように変化するのかについて説明されているが,他の腸内常在菌との相互作用,協力作用についてはほとんど触れられていない。この問題についてもっと深く知りたいという方は『人体常在菌―共生と病原菌排除能』を読むことをお薦めする。この2冊を合わせたら,大腸菌については完璧だろう。

(2011/04/25)