『フェルメールの光とラ・トゥールの焔 ─「闇」の西洋絵画史』 (小学館101ビジュアル新書)★★★


 本書は私のように西洋美術をあまり知らない人間にとっては最高の入門書だと思う。「闇と光」という主題を中心に西洋絵画の歴史を俯瞰する視点も素晴らしいし,その代表例として取り上げられている様々な時代の作品についての説明がこれまた的確だ。本のページ数の制限から文章は簡潔なものにならざるを得なかったはずだが,その十分と言えない文章量の中からカラヴァッジョやラ・トゥールの生涯や人となりを見事に浮き彫りにしていく文章力は見事だ。

 そして何より,掲載されている70点余りの絵画がすべてカラーでしかも美しいのだ。絵画について解説する新書は多いが,このページ数でこれだけのカラー図版を載せている本はあまりないと思うし,写真の美しさはまさに感動モノだ。

 それから,あまり目立たない点だが,絵画の専門用語(例:スフマート,キアロスクーロなど)が二度目,三度目に登場する際には必ず「〇〇ページ参照」というように初出ページが必ず示されているのだ。本の読み手からするとすごく親切でいいのだが,本の書き手からするとすごく大変なのである(自分の書いた文章とはいえ,各章ごとに別々のファイルにしているとその用語の初出部位をあとから探すのはすごく骨が折れるのだ)。このあたりは見習っていきたいなと思う。


 そして,随所に挟まれている多彩な知識が嬉しい。例えば,「バロック様式はそのわかりやすさから,プロテスタントに対抗するためにカトリック教会で利用された」なんて一文がそうだ。これを知っていれば「バロック音楽といえばバッハ,バッハといえばバロック音楽の代表」なんて嘘には騙されなくなる。バロック音楽の中心地はイタリアとフランスであり,当時のドイツは文化の辺境地だったからだ。バッハがフーガなどの対位法音楽を作曲していた頃,このような様式はイタリアではすでに時代遅れの過去の作曲様式でしかなく,そういう情報が伝わってこない「文化の辺境地」から一歩も出なかったバッハは時代遅れと知らずにフーガばかり作曲していたのだ。とりわけ,バッハの最晩年の『音楽の捧げ物』で用いた「リチェルカーレ」はさらに古い時代のものであり,彼の音楽志向は同時代の作曲家からすると考えられないほど古臭いものだったのだ。

 同様に,16世紀美術の中心地だったローマやナポリからその様式がスペイン絵画に受け継がれてベラスケスで頂点を迎えること,その後,オランダが文化の中心となった理由,そのオランダが衰退していった歴史的経緯・・・などが極めて手際よく説明されていて非常に分かりやすい。


 本書のタイトルは17世紀半ばのフェルメールと,17世紀初めのラ・トゥールを中心に据え,14世紀のガッディから20世紀のピカソに至る様々な画家たちの作品を例に上げて,彼らが「光と闇」をどのように捉え,それをカンヴァスにどのようにして写していったのかを克明に説明していく。そしてそれは「光」という捉えどころのないものをいかに平面で表現するかという歴史であり,光の背景にある「奥行きあるものとしての闇」の表現追求の歴史でもあったことがよくわかる。

 もちろん,ロウソクの炎のわずかな揺らめきで静謐で聖化された世界を闇から浮かび上がらせるラ・トゥールの作品は神々しいばかりだあり,「光を描くために必要な闇」を封じ込め,空間全体を一つの「光のドラマ」に変えたフェルメールの手法も圧倒的だ。私はこれまでラ・トゥールについては全く知らなかったため,彼の絵が多数見られただけで幸せだったし,これだけでもこの本に出会えてよかったと思っている。





 そして,私が個人的に最も惹かれたのは16世紀末から17世紀初頭にかけて活躍したカラヴァッジョの作品だ。彼の最初の作品が公開されるな否や,一夜にしてその名が人口に膾炙してローマ中に知れ渡り,同時代のあらゆる画家がその技法を真似し,亜流が続出した画家である(ちなみに本書の著者はカラヴァッジョの研究家である)。弟子も工房も持たない彼は,なんと一人で後期ルネサンス様式を終焉させ,バロック様式の先駆けとなったのだ。そして,恐るべき迫真性と強烈な明暗コントラストで描かれる宗教画は,神秘的でありながら世俗的であるという驚くべき高みに達している。


 だが,この宗教画を描いたカラヴァッジョは宗教からもっとも遠い人間だった。何しろ本物の殺人犯であり,死刑宣告を受けた人間なのである。彼に関する記録としては絵の注文書よりも警察や裁判に関する文書の方が多く,暴行事件や器物損壊の罪で何度も投獄され,刑務所の常連だったというから,筋金入り(?)の気合いの入った悪党なのである。そういう悪党・ならず者が逃亡生活の中で神々しいばかりの宗教画を描き,それを見た人を感動させ宗教的法悦に誘ったのだ。

 芸術家の人間性と彼が生み出す作品は全く別物であり(ワグナーがそうだ。彼は恩人であり最大の理解者ビューローの妻にして恩師の娘でもあるコジマに勝手に横恋慕し,強引に奪ったとんでもない奴である。しかしそのワグナーが史上もっとも美しく至純・清純な愛の音楽を書いている),作品は作品として評価すべきだと思っているが,それにしてもカラヴァッジョの人となりと彼の作品のこのギャップはあまりにも大きい。


 このカラヴァッジョの絵を見て,私はルネサンス音楽の異端児,カルロ・ジェズアルド(1566年~1613年)を思い出してしまった。ジェズアルドとカラヴァッジョ(1571~1610)はほとんど同じ時期に生きていたが,どちらも殺人犯なのである。カラヴァッジョが殺したのは喧嘩の相手だったが,ジェズアルドが殺したのは妻とその浮気相手であり,二人の死体を切り刻んでナポリの公共の場所に置き去りにして晒し物にしたのだ。これだけでも十分に極悪非道なのに,自分の次男を我が子でないと考えて一緒に殺してしまったと言うから,いくら恨み骨髄だったとしてもひどすぎる。悪党の風上にすら置けない,とはこういう奴のことをいう。ちなみに当時,この事件は当時広く知れ渡り,ジェズアルドの非道で卑怯な行動(浮気相手を後ろから切りつけて殺している)に非難集中だったそうだ。しかし,貴族だったジェズアルドは罪に問われることはなかったが,それ以降,自領の城で隠遁生活を送り,作曲で余生を送ることになり,数々の美しい声楽曲を生み出していく。

 ところがこのジェズアルドの作品が同時代の音楽の範疇を遙かに越えたとんでもないのである。もちろん,現代の私たちの耳には古風な美しい曲にしか聞こえないが,やたらと半音階が多用され,和声も急激に変化する。しかも,テンポの変化も頻繁だ。要するに,同時代の音楽とは全く違うのだ。このような和声が音楽に次に登場するのは,なんと1880年代になってからである。

 しかし,ジェズアルドは素人作曲家だったこともあり,彼の音楽は当時はほとんど知られず,その様式を次ぐ者もなかったが,20世紀になって突然再発見され,ストラヴィンスキーが高く評価したことから知られることになり,現在,彼の合唱曲は普通に演奏されるようになったのだ。

 この「一時期,完全に忘れ去られていたが,その後突如として再発見され,最大の評価を得る」というあたりは,フェルメールやラ・トゥールの作品にも通じるものがある。

(2011/05/23)