『裏側からみた美術史』★★★(宮下規久朗,日経プレミアシリーズ)


 これは,ある企業の月刊のPR誌に20回にわたり連載された記事をまとめたものとのことである。とにかく,呆気に取られるほど豊富な知識が満載であり,どのページを開いても美術と歴史に関する情報量に圧倒されるはずだ。何しろ古代ギリシャの風俗から日本の刺青,そしてスターリンや毛沢東の肖像画のことまで話題が及ぶのだ。これぞまさしく読書の愉悦だろう。


 例えば第一話の「天才の嫉妬」では,著者の専門であるならず者殺人者画家のカラヴァッジョが,当時の二流画家バリオーネに対する執拗な攻撃が取り上げられている。「下手な絵だ。こんな絵を見たら目が腐る!」と罵倒しただけでは飽きたらず,「バリオーネのカミさんのアソコは・・・だけど,やつのチンポコは・・・」という便所の落書き級の下劣な詩を作って吹聴して回ったというから,およそ大人のすることではない。品性最悪,人格最低である。そころが,そのカラヴァッジョが一度絵筆を取ると,観た者を感動の嵐に包み込む荘厳で敬虔な宗教画を書いたのである。


 そして第二話の「不良か優等生か」の章で紹介されるラ・トゥールもとんでもないやつである。詳しくは本書を読んで欲しいが,ケチで暴力的で利己的で独善的という,嫌なやつの要素を集めて煮こんで煮こごりにしたような人間だったようだったのだ。少なくとも,絶対に隣人にしたくないタイプである。ところがこのラ・トゥールが奇跡的なまでに静謐で感動的な,まさに神が降臨したような祈りの絵ばかり残しているのである。

 もちろん,宗教画を描く画家がすべて敬虔な信者である必要はないし,経験なキリスト教徒が残した下手くそな絵よりは,罰当たりな人間が書いた見事な宗教画の方がありがたいのである。これは,人間的には素晴らしいが料理の腕がからきし駄目なシェフの作った料理より,人間性は最悪だが料理の腕は超一流というシェフの作った料理の方が美味しいのと同じであり,作品が素晴らしければ,それを作った人間の人間性なんてどうでもいいわけである。だが,このカラヴァッジョやラ・トゥールのような「作者の人間性と彼の生み出した芸術のギャップ」はやはりかなり極端な例だと思う・・・というか,思いたい。


 また,第十話の「本物と偽物のあいだ」も興味深い。例えば,茶道具ではそれ自体の美的価値ではなく,由緒正しい来歴が箱書きなどによって保証されていることが価値なのだ,というのも興味深い。凡人の目には,どう見ても茶杓は「竹をちょっと削って作った耳掻き」にしか見えないのだが,茶杓の価値の本質は素材や造形にはないのである。メトロポリタン美術館に所蔵されているカラヴァッジョの『リュート弾き』はエルミタージュ美術館の同画の下手くそな模写にしか見えないらしいが,何しろメトロポリタンの方は錚々たる持ち主の来歴がはっきりしているのである。だからこれを真筆とするしかないらしい。そして著者はこれらの例を足がかりに,コピーとレプリカの違いは何か,真作でなくても価値のある作品とはどういうものなのかを論じていくのである。例えば,これまでゴヤの傑作中の傑作とされてきた『巨人』が実はゴヤの弟子のアセンシオ・フリオの作品であることが近年明らかにされたことを取り上げ,それによってこの絵の価値は下げるべきなのか,と言及していく。そして,この絵が大好きな私にとっては,この論考は非常に納得のいくものだった。


 第十三話の「芸術家の晩年と絶筆」という章も興味深かった。要するに,巨匠の最後の作品,白鳥の歌とは何か,という問題だ。もちろん,ルネサンスのティツィアーノのように80歳,90歳になってもさらに新しい表現に挑戦し,さらなる高みに登ろうと挑戦を続けた巨匠もいたが,これは例外中の例外である。大概の画家はマンネリに陥り,ダラダラと同じような作品を作っていくうちにある日突然死を迎え,凡庸な作品が絶筆となるのが普通だ。この傾向は特に,霊感と内面世界に浮かぶ幻想を描いた画家で顕著で,キリコもアンソールもシャガールもピカソも,若い頃の霊感に満ちた作品を自己模倣するばかりだったらしい。いずれも,若い頃に名声を得,鮮烈な作風で一世を風靡した画家であるだけに,溢れるほど自然に湧いてきた霊感が中年以降に枯れてしまった場合,その後の人生は芸術家としては辛いものがあったと思う。「人生は短く芸術は長し」ではなく,彼らの場合「人生は長く芸術は短し」だったのだろう。


 そして本書の白眉は第十九話の「戦争と美術」だ。この章の主人公は藤田嗣治だ。戦前のパリで活躍し,乳白色の柔らかな肌の女性ヌード画や子供の柔和な絵で国際的に有名な画家である。ちなみに,私のような秋田県生まれ人間にとって藤田は,平田美術館に常設展示されている世界一巨大な壁画『秋田の四季』の画家である。実物を見るとわかるが,ただただ巨大なだけで,絵としての価値は全くない駄作である。だから私にとって藤田嗣治はこれまで「どうでもいい画家」の一人だった。だが本書を読んで,画家藤田嗣治の真髄は別にあったことを知った。

 第二次大戦中,日本の軍部は戦地に画家を派遣して国威発揚,戦意高揚のための戦争画を描かせたことは有名だ。当時活躍していた有名・無名画家のほとんどがこれに参加し,その中心的な役割を果たしたのが藤田嗣治だったらしい。そして日本は敗戦を迎えるが,美術界はGHQの追及を恐れて,「全て藤田がしたことです。私たちは藤田に騙されて絵を書いただけです。悪いのは藤田です」と彼一人に戦争責任を負わせ(実際にはGHQが画家個人の責任を追求したことはなかったが),自分たちの責任はなかったことにした。それまで,「私にも戦争画を描かせてください」と藤田に取り入って阿諛追従した画家たちは一夜にして態度を変えたという。まさに,「鬼畜米英」から「強くて優しいマッカーサー」の大転換である。これ以後,藤田はそんな日本画壇に嫌気が刺したのか,日本を離れてフランスに帰化し,二度と帰ることはなかったという。

 しかし,戦争翼賛画家の藤田は実は戦争を賛美した絵を描いていなかったのである。それが本書で紹介されている『サイパン島同胞臣節を全うす』だ(この作品は伝聞情報とアメリカの「ライフ」誌の情報をもとに描かれたらしい)。ここでは「バンザイクリフ」に追い詰められ,自決していった日本人の最後の悲惨な姿が描かれている。粗末な武器を持って最後のなけなしの抵抗をする男たち,死ぬ前に赤ん坊に最後の乳を飲ませる母親,小刀で自分の喉をかき切ろうとしている女たち,死化粧にと髪を櫛り最後の身支度をする女たち,そして,断崖絶壁から次々に身を投じる女たちの姿が,恐ろしいばかりの迫真性と迫力で描かれている。しかも藤田は,終戦後もこの絵に,何かに取り憑かれたように筆を入れていたという。

 その結果として生まれた絵には血の匂いと死臭が漂い,絶望と暴力と苛烈な死が生々しく描き尽くされている。これは絶対に「戦争賛美画」ではない。これは戦争という暴力と惨禍を容赦なく抉り出した傑作であり,戦争という人類最大の愚行を告発する絵だ。軍部翼賛体制に組み込まれたはずの藤田嗣治が,画家の目で戦場を観察し,その本質を抉り出して白日のもとにさらけ出してしまったのだ。戦争を賛美し,戦意高揚のために絵を描いたはずだったのに,絵描きとしての本能がその裏に隠されている死臭を嗅ぎ分け,戦争の愚かしさと醜さを無意識のうちに描いてしまったのだと思う。それは,軍部からの命令でもなければ,犠牲者の追悼でもなければ,悲劇の告発でもない。画家の本能に従って止むに止まれずに描いたものだろうと思う。

 これぞ畢生の大作であり一世一代の傑作だ。恐らく,これに匹敵する戦争画はゴヤの『1808年5月3日』と版画集『戦争の惨禍』くらいしかないと思う。もしも藤田嗣治の作品がこれ一枚しか残っていなかったとしても,彼の名は不朽の画家として記憶されるべきだ。

 この藤田の絵に出会うためだけでも,本書を紐解く意味があると思う。

(2011/05/30)