本書が取り上げているのは世界各地10カ所の実験施設と観測施設だ。それらを著者が実際に訪れ,どのような経緯で建設が決まり,どのようにして建設され,運営され,何を観測しているか克明にレポートしていく。そして同時に,ビッグバンと物質の誕生の理論,場と力,量子重力理論,ストリング理論などについて,それらがどのような経緯で考えだされたのかをわかりやすく説明し,現代の宇宙観測上の最大の謎ともいうべきダークマターとダークエネルギーについて説明していく。ともすれば理論的な説明になりがちなこれらの概念について,実際の観測現場の様子と平行して観測対象が具体的に説明されているため,とてもわかりやすいものとなっている。
本書で取り上げられている施設はミネソタ州スーダン鉱山のCDMS(低温ダークマター探査),ロシアのバイカル湖最深部に設置されたニュートリノ探知機,アンデス山脈パラナル山の巨大望遠鏡,南極点のアイスキューブ・ニュートリノ望遠鏡,ジュネーブ郊外の大型ハドロン衝突型加速器などであり,どれもこれも「万里の長城」的な巨大さである。
例えば,バイカル湖底のニュートリノ探知機はダークマターの存在を証明するためのもので,天の川銀河中心部からのニュートリノを検出するためのものだ。そのため,天の川銀河中心から最も遠い位置にあり,しかも大量の水を湛えているバイカル湖が選ばれたのだ。要するに,地球そのものを宇宙線ニュートリノの遮蔽物としたわけである。逆に言うと,地球全体を利用しなければ天の川銀河中心からのニュートリノは観測できないものなのだ。ちなみに,このバイカル湖は世界最大の湖であり,南北680km,東西40~50km(最大幅80km)だが,680kmというと東京から広島までの距離に相当するのである。ニュートリノを検出するためにはこれほどまでに巨大な水塊を必要とするのだ。
この巨大さだけでも想像を絶するのに,これらの観測装置はミクロン単位,場合によってはナノメートル単位の精緻さで組み立てられているのだ。
例えば,ハワイのマウナ・ケア山に設置されている2基の10m級望遠鏡は36個の断片を組み合わせて作られているが,鏡の曲面の誤差は数ナノメートル以下であり,おまけにこの局面は球面ではなく放物面なのだ。つまり,どこをとっても曲率が異なる非球形なのである。それをナノメートル単位の制度で磨き上げ,組み立てるというのだから,まさに「巨大なナノテク」である。
あるいは,現在稼働中のフランスとスイス国境をまたぐLHC(大型ハドロン衝突型加速器)のATLASも直径数十kmという巨大さだが,数千トンの装置全体の組み立て精度はなんと25ミクロンなのである。しかも,9000個の超伝導磁石を備えているが,そのうちの1000個はそれぞれ35トンという重量であり,必要とする磁力を生み出すために絶対温度で1.9Kまで冷却されているのである。1.9Kというと宇宙空間の温度(=2.7K)より低く,いわば「宇宙で最も冷たい温度」といっていいらしい。このため,LHCは地球にありながら宇宙にあるようなものとなり,極端な超低温のため,なにかトラブルが起きても容易にたどり着けない代物になってしまったという。装置に不具合が生じても,その調査のためにはまず超伝導磁石を室温に戻す必要があるが,それになんと5週間かかるのだ。そして,修理が終わっても,もとの温度に戻すのに5週間の時間と,1万トンの液体窒素と130トンの超流動ヘリウムが必要なのだ。要するに,「地球にある宇宙空間」みたいなものであり,そこにたどり着くには宇宙に行くのと同じような時間と費用がかかるのだ。
なぜ,ここまで巨大にして精密な測定機器・施設を作る必要があるのか。それは,通常の実験室で実験できることは20世紀半ばまでに全て実験しつくされ,解明されているからだ。そして,まだ解明されていない事実を実験で証明するには通常の実験室を遙かに越えた規模と精度が必要になり,新たに創案された理論を検証するためには,実験室どころか地球全体を一つの実験室として扱わなければいけなくなったのだ。
かつて,物理学は理論と実験が車の両輪として互いに連動し合いながら前進してきた。ケプラーが太陽系惑星を観測して精緻なデータを残し,それを元にしてニュートンは万有引力の法則として結実させ,リンゴの落下から地球や木星の公転までが一つの理論で説明できるようにした。1887年,マイケルソンとモーリーは地球の回転方向によらず光速が一定速度であることを実験で確かめ,それを元にアインシュタインは1905年に特殊相対性理論を発表した。さらに1916年,アインシュタインは慣性運動系の枠を取り払った一般相対性理論を案出し,それは1919年,太陽の重力で光線が曲がる現象が皆既日食で確認されることで実証された。
さらに,物質の根元を探る素粒子物理学でも理論が新しい粒子の存在を予言し,それが数年後に実験で確認され,新たな事実を受けてさらなる新理論が提唱され,それを実験が追いかけるという,実験と理論の二人三脚が続いていた。事実,ガリレオ以来,物理学はほぼ10年ごとに新しい法則を発見し,新たな地平を切り開いていったのだ。
しかし,1970年以降,そのような歩みは止まってしまった。もちろん,観測データを説明する新理論は次々と発表されているのだが,それが本当に正しいのか,どれが正しい理論なのかを実験で確認できず,結論がつけられないまま理論だけが独走・暴走している状態である。
例えばダークマター。これは1960年代のアンドロメダ銀河の観測に始まる。銀河は一様な速度で回転していることが発見されたが,これはケプラーの第三法則に当てはまらないものだ。もしも銀河を構成する個々の星がケプラーの法則に従って銀河中心を回転しているとしたら,銀河の渦巻き構造は保てないはずだ。さらに,銀河団を構成する個々の銀河の速度と銀河団全体の質量から,銀河団は個々の銀河を引力で引きつけることはできず,銀河団はバラバラになってしまうはずだ。要するに,銀河にしても銀河団にしても,質量が足りなすぎなのである。これを説明するためには,「銀河中心には見えない物質が大量にあり,それは銀河辺縁部にも大量に存在する」という仮説が提案された。その見えない物質がダークマターだ。
となれば,次はダークマターを検出すればいいのだが,これが困難を極める。「見えない(=観測できない)物質」がなぜ観測できないかというと,通常の物質と反応しないからとしか考えられない。反応するならすでに発見されているはずだ。
それならば,ダークマターが濃密に溜まっているであろう銀河中心ではダークマター同士の衝突が起こり,そこから発生するはずのニュートリノを検出すればいい。銀河中心からのニュートリノを検出できるのはバイカル湖しかない・・・となった訳らしい。
さらに,20世紀半ばに宇宙が膨張していることが発見され,2004年にその膨張速度が加速していることが確認されて閉まったが,これも深刻だった。宇宙規模で作用する力は重力しかないからである(物理学でわかっている力は4つ,重力,電磁力,強い核力,弱い核力しか発見されておらず,遠距離でも作用するのは重力だけである)。重力は引力であり,銀河や銀河団はお互いに引き合うことはあっても離れようとする力は存在しないはずだ。それなのに,宇宙は膨張し,しかも加速しているのだ。これが事実だとするなら,重力に打ち勝つ斥力がなければいけないことになる。その斥力をダークエネルギーと呼ぶことにした。そして,ビッグバンから70億年くらいまでは重力が主に作用し,それ以降はダークエネルギーが凌駕して膨張が加速し始めたらしいということも理論的に確立した。
問題はダークエネルギーの検出方法だ。ダークマターもそうだが,力と質量があるということはそれに対応するフェルミオン(物質を構成するもの)とボソン(力を伝えるもの)があるはずだが,重力に関してはそのどちらも未知のものであり,ボソンは通常物質と反応していないのである。物理学の標準理論としては,これは非常に困った事態なのだ。
では,何が観測できたらダークエネルギーの存在を証明できるのかと言うところでわけがわからなくなっているのが,現状らしい。
さらに,ダークホール内部やビッグバン直後のように,巨大な重力が極微の体積に圧縮されている局面では量子力学と重力理論(=一般性相対論)が同時に成立する理論体系が必要となる。それが量子重力理論なのだが,これが何ともうまくまとまらないのだ。量子力学では3つの力(=電磁力,強い核力,弱い核力)は極限状態では一つのものであったことが理論的に導けるが,その3つと重力がまとまらないのだ。もちろん,1970年代に発表されたストリング理論は4つの力を一つにまとめることができるが,実験でストリング理論を確認する手段そのものが存在しないのである。
まさに袋小路に入り込んでいるような状態だが,それだからこそ新たな観測手段・実験施設を必要とするのである。本書を読むとわかるが,何か一つの実在が証明できれば,様々なことが芋蔓式に導き出せる可能性があるのだ。だからこそ,物理学者は必死になって実験方法を模索しているのだ。
ただ,現時点で観測できていないものを観測するためには,地球サイズの実験装置が必要となり,それを建築・維持・運用するためには巨額の予算が必要になってしまった。しかも,その実験で確実に成果が出るかどうかもわからないのである。要するに,物理学の実験は個人の趣味や好奇心というレベルを超え,図らずも国家レベル,地球レベルのものになってしまったのだ。
(2011/07/25)