『物語 食の文化 - 美味い話、味な知識 』★★★ (中公新書)


 とにかくすごい本である。まず著者略歴を見てびっくりする。なんと1925年に生まれ、1947年に京都大学農学部卒業と書いてあるではないか。今年86歳であり私の親より上の世代である。何しろ私が生まれる10年前に大学を卒業しているのである。そういう人生の大先輩がこれほど重厚にして長大精緻な本を書いたのだ。この事実だけで私は圧倒され、生半可な気持ちでこの本を読むまいと襟を正した。

 仕事柄、高齢者の方々にイヤと言うほど会っているが、86歳の男性といえば同世代の人間の多くがすでに鬼籍に入り、生き残りの半分も病気だったり寝たきりだったりしている場合が圧倒的に多いのだ。私の経験では、86歳にして頭脳明晰なお爺ちゃんに出会える確率は思慮深い20歳に出会うより難しい。それなのに、本書の著者である北岡先生は膨大なデータを順序よく整理し、わかりやすく説明し、食を縦軸にして人類通史を構築してみようという途方もない試みに挑戦しているのだ。もうこの時点で脱帽である。


 おまけに、この本の分量(=文字数=情報量)がけた違いなのだ。本文だけで360ページと新書としては最大級のボリュームなのだが、ページを開くとなんと上下2段組で文字が小さいのだ。おまけに余白なんてほとんどないのである。上下左右に広くマージンをとり、大きなフォントでページ数を稼ごうなんてケチな精神は持ち合わせていないのだ。

 そして、1段は16行×22文字である。ということは、単純計算すれば253,440文字となり、原稿用紙にしてなんと633枚だ! 目の前に600枚の原稿用紙が積み重なっている様子を思い浮かべて欲しい。しかもその原稿用紙はぎっしりと文字で埋め尽くされているのである。ちょっとでも文章を書いたことがある人なら「原稿用紙633枚」と聞いただけで「降参です。とてもかないません」と白旗を揚げると思う。もちろん私も1ページ目を読み始めた時点で白旗をあげた。この文字密度は尋常ならざるものだ。


 そして,物理的分量(=文字数)に輪をかけて内容がこれまた濃いのである。「水増しして633枚に膨らましました」なんてところが微塵もなく,「文章を削りに削り,内容を厳選して何とか633枚に圧縮しました」という執筆の様子がありありと目に浮かぶのだ。余分なものを削ぎ落した骨太の文章なのだ。

 例えば「小麦粉」の項目を読むと,コムギの原産地がどこで,いつ頃からどこで栽培が始まったのか,なぜ多数の野生の植物からコムギが選ばれたのかを知ることができる。そして,なぜコムギは必ず小麦粉で利用されているのかも納得できる説明をしてくれる。そればかりか,パン生地の種類と様々な焼き方が説明され、それが世界各地のパンにどのように反映しているのかが説明され、さらに中国の麺と饅頭の歴史と種類,ナンとチャパティ,日本のうどんとラーメン,さらには他の麦類まで、間然とするところがない。コムギのアルファからオメガまでが数十ページに凝縮しているのだ。

 これは他のあらゆる食材についても同様で,例えば「肉・卵・乳」の章では,食用とされる家畜の歴史、動物の特性と飼育法,宗教とタブー、仏教と肉食禁忌とあり,卵についての世界各地の言い伝えから,日本人が生卵を好む理由(日本人以外は生卵の食感が大嫌い!)まで,これまた膨大な情報が網羅されているのである。しかも、魚介類、酒、果物、菓子などについても細大漏らさずデータ満載である。


 これが,第2部の「料理・食事・食文化小史」になると更に面白い。例えば第12章の「台所」を読むと人類がこれまで「水」を入手するためにどれほど苦労してきたかがわかるし,それはそのまま上水道と下水道の開発の歴史につながっていく。あるいは、ヨーロッパにも中国にもない「すり鉢」が日本で普及した理由と,すり鉢がヨーロッパにない理由・・・なんてあたりも簡単に説明されているが、実に奥が深いのだ。

 あるいは第19章「西洋の食文化小史」を読むと,古代ギリシア,ローマから現代に至るヨーロッパ文明の興亡と変遷が「食事と食事の作法」を通じて見事に生き生きと描き出される。「食」という極めて日常的で誰もが逃れられない行為だからこそ,当時生きていた人々が何をどう考えて食べていたのかが追体験でき、当時の人々の心持ちとか生きる信条まで脳裏に蘇ってくるのだ。これは日本でも同様で、縄文人の食,平安貴族の食,戦国武将の食と食事様式を知ることで当時の日本人が生身の存在として感じ取れるようになるはずだ。食べ物を知ることは、それを食べている人を知ることだからだ。


 本書のカバーには「人類は長らく、まずいものを毎日毎日飽きずに食べてきた」とある。

 例えば、土器を焼いて加熱できる壷を作ったとしても、それで煮た食べ物は実はまずかった。土器の土が汁に混入するため、泥を一緒に食べているような味だったからだ。
 平安貴族たちの食卓に並んでいたのは生ものと干物だけで加熱されたものは全くなかった。藤原道長も光源氏もそういう食べ物を毎日毎日食べていたのだ。
 中世ヨーロッパの王侯貴族や王女や貴婦人たちは、茹でて焼いた肉の塊に塩をふって手づかみで食べていた。その後、香辛料が手に入るようになるとあるだけの香辛料を肉にかけて食べた。おいしく食べる、という概念がなかったのだ。
 一方、ヨーロッパの農民や庶民は18世紀になっても「少量の塩漬け肉+豆+くず野菜のごった煮」を来る日も来る日も食べていた。しかも、鍋はずっと火にかけられっぱなしで、食材が足りなくなればそれを足すだけであり、調味料は塩だけだった。何日も煮詰められたグチャグチャになった野菜くず以外に食べるものがなかったから、飢えを凌ぐためにはそれを食べるしかなかったのだ。

 ホモサピエンスは誕生から10万年間、そういう「不味いもの」ばかり食べて何とか絶滅せずに生き延びてきたのだ。彼らが「不味いもの」を食べて何とか生き延びてきたから、私たちが今こうやって生きているのだ。


 生きることは食うこと、食うことは生きることだ。食の歴史を知ることは人類の歴史を知ることだ。食べている物を知ることはその人を知ることだ。この本は読者にそう問いかけてくる。

(2011/12/15)