この本は読み終えたくなかった。ずっとずっと読んでいたかった。もっとエルデシュの言葉を読みたかった。もっともっとエルデシュについての数学者たちの言葉に接したかった。もっと長くエルデシュの世界に浸り続けたかった。
だが,読み進めれば読み進めるほど,最後のページが近づいてくる。そして,新たにエルデシュについて知ることはわずかしか残されていない。あと数ページでエルデシュとお別れだ。残りのページの薄さを実感して泣きたくなってくる。なぜこの偉大な数学者のことをこれまで知らなかったのだろう,彼が生きているときに彼のことを知らなかったのだろう,同時代にこんな素晴らしい人がいたことをなぜ知らなかったのだろうと,自分の不明を恥じるばかりだった。
1913年に生まれ,1996年に83歳で死去したハンガリー生まれの数学者,ポール・エルデシュはまさに天才だった。3歳にして3桁の数字同士のかけ算ができ,4歳で負の数を独力で発見した。しかも,発表した論文は1475編と史上最多を誇り,おまけにそのどれもが数学史上,もっとも質の高い論文なのである。しかも,70歳を過ぎてからも50編の論文を発表し,それは普通の数学者が生涯に書く論分の平均数より多かった。数学者は20代で頂点を迎え,あとは余生を過ごすだけというパターンが多いのに,彼は老いてますます,新しい問題の証明に情熱を注いだ。何しろ,83歳で国際数学セミナーに出席し,壇上である問題の証明の説明を終わり,次の問題に取りかかろうとしたときに突然,心臓が動きを止めたのだ。彼は死ぬまで問題を解き続けた数学者だった。まさに彼は,数学に生き,数学のために生きた人間だった。
しかし,実生活では彼は無力だった。靴ひもを初めて自分で結べるようになったのは11歳の時だったし,パンにジャムを自分で塗ったのは21歳の時だった。トイレでは手を念入りに洗うのだが(何しろバイキンを異常に恐れていた),タオルで手を拭くことを最後まで学習せず手を振って水をとばすだけだったので,彼が出たあとのトイレはプールサイドみたいに水しぶきで汚れていた。おまけに,持ち物はわずかな服と論文を詰め込んだ小さなスーツケースだけで,自宅すらなかった。
そんな彼が生まれたのは1913年のハンガリーである。翌年,第一次大戦が起き,第二次大戦の舞台となり,大戦が終結したあとは米ソの冷戦となり,小国ハンガリーは否応なしにその冷戦に飲み込まれたのだ。普通の人間だって生き延びるのが大変な激動の時代なのに,彼はましてユダヤ人なのだ。しかも,一人ではパンにジャムも塗ったことがない浮き世離れした男なのだ。こんな男がよくぞこの混乱と狂乱の時代を生き延びたものだと思う。
なぜ,こんな生きる術を持たない男が生き延びられたのだろうか。それは,エルデシュが誰からも愛されていたからだ。
彼は数学のために全てを捧げた修道士だった。数学の問題を考える妨げになるものは全て切り捨てた。ガールフレンドもいなければ妻も子供もいなかった。仕事に就くこともなければ住む家も持たなかった。趣味もなければ,テレビも映画も見なかった。持ち物は粗末なスーツケースが一つで,それに衣服と論文を入れて持ち歩いたが,スーツケースの中は隙間だらけだった。講演料や講師料はわずかに手元に残して残りの全てを寄付した。ホームレスを見ると素通りできなかった。
彼は住む家を持たず,4つの大陸を驚異的なスピードで飛び回り,ゆく先々で数学者の自宅の門を叩いた。忽然と目の前に現れたエルデシュは息をつく暇もなく数学者に質問を出し,二人は数学の問題を解き続けることになるが,何しろエルデシュは1日19時間数学の証明を考え続ける驚くほど勤勉な数学者だった。食事の時間ですらナプキンに数式を書いて解き続けるのだ。20代,30代の数学者でも70過ぎのエルデシュの仕事のペースについていけない。そして,彼を迎え入れた数学者が1日か2日で疲労困憊すると,エルデシュは次の数学者の自宅に向かうのだった。こういう生活をエルデシュは何十年も続けたのだ。
エルデシュにとって数学とはチームプレーで取り組むものだった。だから彼は,ある問題に取りかかるとそれを解決する能力を持つであろう世界中の数学者に自分から出向き,彼らと一緒に取り組んだのだ。事実,エルデシュは史上もっとも共著者の多い数学者で,その数は485人に上る。エルデシュと共著を持つ数学者は「エルデシュ番号1」として尊敬され,エルデシュ番号1を持つ数学者との共著者はエルデシュ番号2だった(ちなみにアインシュタインはエルデシュ番号2であり,あの伝説のメジャーリーガー,ハンク・アーロンはなんとエルデシュ番号1保持者である)。
ある数学者は「私はエルデシュが取り組んでいる問題でちょっとアドバイスし,それで彼は証明を完成させた。彼は共著者に私の名前を入れようと言ったが,私は共著というほどの仕事をしていないので断ってしまった。今考えたら受け入れるべきだった。あの栄光のエルデシュ番号1だったのに」と残念がったそうだ。
このため,エルデシュは「フェルマーの最終定理」を6年かけて独力で証明したアンドリュー・ワイルズを非難した。チームで取り組めばもっと早く証明できたからだ。エルデシュにとっては自分が証明者であることはどうでもよく,数学の問題が解決する方が重要だったのだ。より美しく,簡潔な証明ができれば,それを誰が証明したかは問題ではなかったのだ。
そしてエルデシュは世界を歩き回りながら,数学の才能を持つ子供たち,学生たちを見つけては援助した。彼の援助の方法は「その子供の能力よりちょっと高度な問題を与える」というものだった。彼の出した問題を解決した子供は自信を持ち,エルデシュはさらに高いレベルの問題を出し,その子供はどんどん数学の高みに向けて登っていく。このようにしてエルデシュは一流の数学者に育て,彼らの多くが現代数学界を率いているのだという。
そしてエルデシュは何より子供を愛した。数学の才能の有無に関わらず,子供には惜しみない愛情を分け隔てなく与えた。本書の著書はエルデシュとしばらく行動をともにして彼の記事を書いたそうだが,雑誌記事を読んだエルデシュはこのように言ったという。「ベンゼドリン(彼はベンゼドリンやカフェインの錠剤の助けを借りて,休むことなく問題を解き続けた)については書くべきじゃなかった。きみがまちがっているというわけではない。数学を目指す子供たちに,成功するためには薬物を飲まなければいけないとおもわせたくないからな」・・・と。なんて優しく感動的な言葉だろうか。
それにしても,本書で提示される数学の問題の面白さといったらない。ハンク・アーロンはベーブ・ルースのホームラン記録を破ったが,新記録の「715」は何の変哲もない数字である。ところが,ルースのそれまでの記録(714)と合わせると面白いのだ。714×715は「最初の7つの素数の積(=2×3×5×7×11×13×17)」に等しく,おまけに,714の素因数の和と715の素因数の和が等しいのである。このような数のペアが「ルース=アーロン・ペア」であり,エルデシュはこのペアが無限にあることを証明したのだという(その業績に対し,エモリー大学はエルデシュとともにハンク・アーロンに名誉学位を授与した)。
それこそ,かけ算さえできれば小学生にも発見できそうな法則であり,数字の不思議さを教えてくれる数字のペアだ。こんな数字の面白さ目覚めた子供たちを見つけては,エルデシュは彼らに数学奥深い世界に誘い,彼らを本物の数学者へと鍛え上げたのだ。
(2012/02/27)