『これだけは知っておきたい「名画の常識」』★★(中村 麗,小学館101ビジュアル新書)


 美術関係の本を読むのが好きだ。なぜ読むのが好きかというと,美術に関しては私はド素人のため,何を読んでも新鮮な知識に出会えるからだ。何を読んでも新鮮なのだからお得感が漂うのである。だから,書店で美術関係の本を見つけるとつい手に取ってしまう。

 さて,本書であるが,帯には【なぜヴィーナスは裸なのか?  なぜ天使の羽は白いのか? 頭上に光る輪の描かれた人々は誰なのか?】と書かれている。なるほど,こんなことは考えてみたこともなかったし,疑問にすら思ったこともない。だって,ヴィーナスは裸なのが当たり前だし,天使の羽は白いものだし,神様とは頭に輪っかが乗っているものだからだ。だが,それらは「当たり前」ではなかったのだ。ヴィーナスが裸である理由があり,天使の羽が白いのにも理由があるのだ。


 著者はまずボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》,マザッチョの《楽園追放》,紀元前に作られた《ミロのヴィーナス》を例に上げ,ボッティチェリと古代ギリシャが1600年間も時代が隔たっているのに裸体表現が驚くほど似ていて,一方,時代の近いボッティチェリとマザッチョの裸体が全く異なっていることを指摘する。両者の違いは「人間の肉体に対する肯定」と「否定」なのである。その変化をもたらしたのがルネサンスであり,ルネサンス以前と以後で「現世と神の国」に対する考えが逆転し,それが人間そのものに対する価値観を逆転させ,その結果として人間の肉体に対する評価が「否定」から「肯定」へと180°変わったらしい。

 そしてこの価値観は現代まで連綿として受け継がれ,21世紀の美大教育でも裸体デッサンが行われ,ファッションモデルはボッティチェリのヴィーナスと同じポーズで立っているわけだ。


 第二章の「なぜ名画は描かれたのか?」では,ルネサンス芸術の幕開けを告げるボッティチェリの《春(プリマヴェーラ)》を取り上げて,そもそもルネサンスとは何だったのかを説明し,なぜルネサンスがフィレンツェで花開いたのかをわかりやすく解いていく。そして,ガチガチのキリスト教社会だったこの時代に,なぜギリシャの神々(キリスト教からすると異端の宗教であり,異端の神である)が描かれるようになったのかが解き明かされていく。

 この章の後半に取り上げられる「当時のイタリアに暮らす庶民たちはルネサンスが始まったことを知っていたのか」という命題も非常に面白い。実は当時の庶民たちは,聖母子像に描かれる聖母マリアやイエスの表情の違いを見て,知らず知らずのうちに時代の変化に気付いていたのだという。要するに無表情な聖母マリア」から「柔和で人間的な聖母マリア」への変化だ。ルネサンスとは何かはわからなくても,この変化ならわかる。


 第三章の「なぜ天使の羽は白いのか?」も面白い。旧約聖書のイザヤ書やエゼキエル書で描写されている天使の姿はほとんど怪物,あるいは妖怪である。一方,新約聖書に天使は登場するが,天使の姿については具体的記述はほとんどないらしい。しかし,教会から「受胎告知」の得の注文を受けた画家はたとえ手掛かりがなくても天使の姿を描かざるをえない。「受胎告知」は天使が行ったからだ。当然,絵にするためには天使を具体化しなければいけない。しかも,見る人が必ず「これは人間でなく天使である」と気付いてくれないと話にならない。そのためのアイテムが「羽」だったらしい。ルネサンス初期に描かれた「天使の羽」は極彩色だったり茶色だったりと様々だったが,ある間違いから人々は「天使の羽は白い」と思い込んでしまったのだという。
 そして,この「天使の羽」と同様のアイテムが「頭の上に光る輪」だったわけだ。「ヨセフを探せ!」というタイトルが秀逸だ。


 あるいは,第五章の「なぜ愛を伝えるのは難しいのか?」も西洋絵画の本質に迫っていると思われる。「愛」や「憎しみ」のような抽象的概念や感情を絵画という具体の世界で表現するためには,ある種の仕掛けが必要だ。そこで,ルネサンスの画家たちはギリシャ神話はローマ神話に素材を求めることで解決しようとした。「愛の女神」であるヴィーナスを描くことで「愛」そのものを表現しようとする試みだ。あとは,絵を見る人に「この女性がヴィーナスである」という目印を付加すればいい。それが「絵画の約束事」であり,後の時代の寓意画につながるわけである。

 寓意画は極めて巧妙な作戦だったが,反面,「約束事がわからないと何が描かれているのかわからない」絵画を生むことになってしまった。実際,ジョルジョーネの《嵐(ラ・テンペスタ)》は極めて現実的・具体的な光景を描いているのに,いったい何を描いた作品なのかは現在に至るまで謎なのである。絵に手掛かりがなく,絵以外に判断材料が残されていないからだ。

 宗教画は最初から不特定多数を対象にしていたが,寓意画は特定少数のグループを相手に描く「仲間内の絵」だったから当然といえる。仲間同士では「それが何を意味するものか」は暗黙の了解であり,それがわかるからこそ「仲間」なのである。そして,暗黙の了解が失われた時,絵画は残るが「絵画が意味するもの」は永遠に失われてしかなかったのだ。

(2012/04/19)