巨大津波は生態系をどう変えたか★★


 あの未曾有の大災害の1年後,東北の津波被災地の生物はどう変化したのかを克明に記録した力作である。東北太平洋沿岸の津波跡地を北から南まで自分の足で踏破し,生物相の変化を美しい写真に記録として残している。
 おそらく,2年後,3年後と生物相は刻々と変化していくと思われるが,その最初期の変化として何が起きたのかは,今しか調査できないし,このタイミングを逃したら,おそらく永遠に埋もれてしまうはずだ。今回のような「千年に一度の擾乱」を目の当たりに観察できる機会はおそらくもう二度とない。その意味では極めて意義のある企画である。
 「まだ瓦礫の山は残っているし,仮設住宅ぐらしの人が数十万人いるというのに,セミやトンボなんかどうだっていいだろう」と考える人もいると思うが,こういう状況だからこそ,真面目な研究者はその本文の研究に励むべきだと思うし,観察した結果を膨大な資料とともに後世に残そうとする作業は,いつか絶対に必要となるはずだ。


 本書を読んで改めて再認識したのは,「生物は環境によって選ばれている」という事実である。水田跡で大発生したメダカ,多少の塩水をものともせずに繁殖するアメンボ,他の植物が消えた後に復活したミズアオイなど,まさに「津波によってもたらされた変化」に適応し,「大津波によって生まれた新たな環境」にセレクトされた生物が大繁栄しているのだ。

 その「環境が選んだ生物種」がミズアオイのような絶滅危惧種であればいいニュースになるし,ハエやカならば悪いニュースになる。だが,その絶滅危惧種とはそもそも,人間が工業とか産業とか大規模開発とかで創りだした「新たな環境」に適応できずに絶滅寸前の状態になっただけなのだ。そういう問題も本書は鋭く指摘している。

 本書にもあるが,津波被災地では夏にハエとカの発生は,栄養となる有機物が増えただけなのである。いくらハエでも栄養がなければ増えられないのだから当然である。大量のハエやカを養うだけの有機物が大量に生じたことによる「結果」にすぎないのだ。
 そして本書でも指摘しているように,ハエの幼虫もカの幼虫も自然界では「有機物の分解者」であり,彼らが大発生してくれたおかげで魚の死骸などの有機物は分解され,やがて土に還っていく。いわば,壮大な炭素輪廻工場である。もちろん,そこで生活する人にとっては単なる迷惑もの,厄介者だが,ハエやカにはそうやって生態系を支えている「縁の下の力持ち」でもあるのだ。


 そして,その津波より,産業化とか大規模工事とかによる変化の方が,はるかに甚大な栄養を生物に及ぼしていることも本書は指摘している。今回の津波は「千年に一度」とよく言われるが,19世紀後半まで,生物種は千年に一度の津波くらいでは絶滅してこなかったのだ。広い面積に生息していれば,30メートルの津波の後でもどこかに生き延びている個体があり,数年後には復活できるからだ。
 これはいわば,皮膚損傷における皮膚付属器(毛孔や汗管)の役目と同じといえるかもしれない。熱傷などの皮膚損傷では皮膚付属器が皮膚細胞の供給源となって,そこから遊離した皮膚が損傷部位を覆い創は治癒するが,これは生物も同様なのだ。例えば,トンボが暮らす湿地が津波に襲われたとしても,どこかに生き延びた個体がいればやがてトンボの群れが復活できる可能性があるし,実際,「千年に一度の大津波」が千年ごとに押し寄せたとしても,生物相は大きく変化して来なかったはずだ。

 しかし,今回の津波の前から,東北の海岸線沿いに広がる湿地は分断化されていた。確かに東北の湿地では多くの希少昆虫が発見されていたが,実はその生息域同士は分断化されていて,生息地がいくらあってもそれらは孤立していて,生物同士の移動は不可能だった。そういうところに「千年に一度の津波」が押し寄せたのだ。そのため,生態系は呆気なく崩壊し,元の生態系は維持できる由もなかった。

 「東北の豊かな自然」と言われるが,それはぶつ切り状態の自然であり,特に海岸沿いの湿地帯やクロマツ林は最初から脆弱だったのだ。
 これは,創傷治癒で言えば,全身のあちこちが瘢痕治癒をして,皮膚でなく瘢痕組織で上皮化した状態といえる。確かに健常皮膚はあちこちに残っているが,それらは瘢痕組織で分断されている。そういう状態で広範囲Ⅲ度熱傷を受傷してしまったのだ。これではもう,治癒は難しい。皮膚の供給源である皮膚付属器そのものがほとんど失われているからだ。
 このように考えると,今回の大津波の後に東北の海岸地域の生態系が大きく変化した理由がわかる。


本書で報告されているメダカの集団もアメンボ第発生も,いずれ消えてしまうだろう。現時点では彼らの生息地は巨大な水たまりだが,恒常的に淡水の供給があるわけではないため,徐々に干上がって水たまりは縮小するはずだ。アメンボなら飛んで次の水たまりに移動できるが,メダカは程無く絶滅するかもしれない。ミズアオイの群落もやがて外来種植物との競争に負けて消失する運命だろう。津波が創りだした「環境」ではミズアオイは生息できるが,人間が作り出す「環境」では外来植物の方が強いからだ。

 本書でも触れられていたが,セミや樹木のように子孫を残すまで数年以上かかる生物は,今回のような「千年に一度」の環境変化の後,なかなか元に戻れないと予想される。特にセミの場合,樹木が安定して育つことが必要で,ある程度の面積の林が再生し,さらにそれから7年かからないとセミの成虫は生まれてこないからだ。東北の海岸にセミが戻るのは一体いつなんだろうと考えてしまう。

(2012/05/21)