オアシス農業起源論★★★(古川久雄,京都大学学術出版会)


 糖質制限をすると、糖質(=穀物、根菜、糖類)は人間にとって必須の栄養素ではないこと、むしろ糖質を摂取することで肥満・糖尿病・睡眠障害・歯周病などのロクでもない症状に悩むようになったことがわかってくる。その意味では栄養というよりは「毒」に近い。

 一方で、人類の歴史を学ぶと、人類が穀物栽培をするようになってから人口が増えたことは明らかだ。20世紀半ば以降の人口爆発を支えたのも「緑の革命」という農業技術革命であり、それが穀物の収量を劇的に増加させたからだ。

 となると、糖質制限について考えるとき、穀物栽培の問題は避けて通れないことになるし、なぜ人類はよりにもよって穀物を栽培するようになったのか、という疑問にもぶつかることになる。つまり、糖質制限について考える上で、農耕生活の起源が問題になるのだ。


 本書は「農耕の起源」について実に多くのことを教えてくれる良書であり、膨大な知識が背景にあって書かれているため、何気ない一文にも実に多くの「考えるヒント」が秘められている。そして何より、「自分が実際に見てきたことについてのみ言及・考察する」という姿勢に徹している点が素晴らしい。全ての文章が「地に足がついている」のだ。

 とは言っても,話は15,000年前のメソポタミアでの出来事であり,それを現時点で実証することは不可能だ。つまり,全て著者の想像の産物かもしれないし,砂上の楼閣かもしれない。しかし,どんな科学もそれを生み出したのは想像力だったはずだ。そして,想像力を欠いた科学ほど詰まらないし,しばしば危険なものに変身したことは歴史の教えるところである。


 日本の古代史の教科書を読むと、「狩猟採取生活の縄文時代の後、農耕生活の弥生時代になった」と書かれている。これだけ読むと極めて明快であり、明治維新で江戸時代と明治時代が分かれるように、縄文時代から弥生時代に移っていったのだろうとイメージしてしまう。しかしどうやらこれは間違っているようだ。類人猿はどれも「定住しない生物」だからだ。

 この問題を極めて明確の論じたのは、以前紹介した『定住革命』という本だ。ここでは、〔狩猟採取生活〕⇒〔農耕生活〕ではなく、〔狩猟採取生活〕⇒〔定住生活〕⇒〔農耕生活〕の順でなければいけないことが、見事に論証されていた。要するに、ホモ・サピエンスにとって「居場所を一カ所に決めて生活する」ことは本能に反する行為であり,定住するだけで困難を極めたのだ。これは霊長類の生態を知らなければ絶対に出てこない視点だと思う。


 そして本書は、そのようにして気候変動により定住せざるを得なくなったメソポタミアのホモ・サピエンスが,ムギ栽培に着手することになった経緯を見事に解き明かしていく。要するに、人類史の革命の一つである穀物栽培は、西アジアの乾燥ステップや砂漠のオアシスに誕生した「小区画灌漑農法」が起源であり、さらにその起源は「生ゴミ入れ」だっただろうと筆者は推理するが、これは極めて納得のいくものだ。そして、その小区画灌漑法は爆発的な効率の良さから周辺地域に広がり、やがて東アジアに拡大し、ここで雑穀栽培を可能にし、やがてそれはイネ栽培を生み出した。このことを筆者はフィールドワークで得られた膨大な証拠から論証していく。

 そして同時に、なぜ〔ムギ栽培〕⇒〔イネ栽培〕の順序だったのか、なぜ〔イネ〕⇒〔ムギ〕の順番ではなかったのかも明らかにする。同じ様な植物だが、ムギが最初に選ばれる理由があったのだ。また、メソポタミアやファータイル・クレセントに自生する植物の種類から「なぜムギなのか」という疑問にも明快に答えてくれる。


 一方、もっとも古い人類の定住地の一つ、ニューギニアなどのマレー圏の熱帯多雨林では、メソポタミアの穀物栽培よりはるか昔から根栽農業が行われていたが、それは「自然改変・一網打尽・大量生産」型の穀物栽培とは全く異なった哲学による農業だった。そして根栽農業は栽培と自生の境界が不明確であり、豊かな自然を背景にした「自然に寄り添った」農業となった。
 だが、厳しい自然を背景に生まれた小区画灌漑農法が誕生の地を遠く離れた多雨地帯にまで普及したのに対し、豊かな自然を背景にした根栽農業はその誕生の地を離れることはなかった。


 なぜ人類がムギという穀物を栽培するようになったのか、なぜそれは他の作物でなかったのか、なぜムギを栽培するようになってから人口が増加したのか、という私の昔からの疑問に対し、本書は極めて明快な解答を提示してくれた。

 そして同時に、根栽農業の持つ栄養学的な問題点(=量は豊富だがデンプンしか含まれない)についても本書はさりげなく言及している。要するに、マレー圏の多雨林地域で始まるべくして始まった根栽農業だが、それは人間にとってベストの食糧を供給する手段ではなかったのである。そしてこれは根栽農業だけの問題だけでなく、ムギ栽培も同様の問題を抱えていたはずだ。


 聖書の中でも最も有名な言葉の一つに「人はパンのみにて生くるにあらず」がある。実はこの言葉の後に「神の口より出づる一つ一つの言によりて生く」という一節が続くことを,私はつい最近知ったばかりだ(・・・こういうのを無知という)。本来の聖書の文章は趣き深いものだが,糖質制限サイドからすると,どうしてもこれを「人間は穀物やイモ類のみにて生くるにあらず」と言い換えたくなってしまうし,恐らくキリスト様もこれくらいのパロディなら許してくれるだろう。

(2012/07/23)