GADV仮説 - 生命起源を問い直す★★★(池原健二,京都大学学術出版会)


 生命誕生という地球最大の謎について、GADV仮説という新たな説を提示する知的興奮に満ちた壮麗・壮大な本だ。何しろ、生命誕生の仮説として現時点で最も支持されている 「RNAワールド仮説」 に真っ向から勝負を挑み、RNAワールド仮説を理路整然と一刀両断しているのだ。
 生命誕生の謎について興味がある人なら,絶対に読んだほうがいい。いや,読むべきだし,読まないという選択肢はないと思う(熱烈なRNAワールド仮説の支持者は別だけど・・・)


 以前、RNAワールド仮説についての本を紹介したが、この時はこの仮説しか知らなかったため、その理論体系に興奮・熱中したが、今回のGADVワールド仮説と比較すると、RNAワールド仮説は確かに魅力的なのだが、論理の穴も少なくないし、仮定と仮定をつなぐ部分に多分に想像が入り込んでいることがわかる。

 それに比べると、GADVワールド仮説は原始地球で実際に誕生したことが確実視されている4種のアミノ酸、グリシン (G),アラニン (A),アスパラギン酸 (D),バリン (V) の構造と機能に着目し、それらがランダムに結合することで生じる原始ペプチドを実際に作成し、実際に作った原始ペプチドが高い確率で 「内側に疎水基、外側に親水基の球状のペプチド」 を形成することを証明していく。なぜ、この 「内側に疎水基、外側に親水基を持つ球状構造」 が重要かというと、「水中で安定的に存在し、しかも機能を持つ(=酵素として機能する)」 ためにはこうでなければいけないからだ。しかも、この4種のアミノ酸がランダムに結合してできるペプチドは、安定した構造を保ちながら、その構造はガチガチに固定されたものではなく、金属イオンなどを取り込む性質も持っている。要するに、原初の酵素としての機能を持ちうるペプチドなのだ。

 本書が唱えるGADVワールド仮説は、この4つのアミノ酸という 「実際に原始の海に存在したもの」 を根底に起き、それから原始ペプチドに化学進化し、それが4種のアミノ酸から構成される[GADV]-タンパク質となり、それが必然的に酵素としての機能を持つようになることを理路整然と説明していく。しかもこの原始タンパク質は疑似複製能力も持っているのである(これも実験的に証明されている)


 一方、太古の地球の環境の再現実験で、アデニンなどの核酸塩基やグリセルアルデヒドやジヒドロキシアセトンなどの三炭糖も自然生成されたことが確認されている。GADVタンパク質は三炭糖の合成を触媒し、核酸塩基合成の触媒を行うものも出現したと考えられている。そして前者から五炭糖やグルコースやリボースが、後者から4種の核酸塩基が生み出され、原始ヌクレオチドが合成され、それはオリゴヌクレオチドに化学進化した。

 このオリゴヌクレオチド合成を通じて原初遺伝暗号が生まれ、遺伝暗号表の 「Gの段」 の遺伝暗号として機能するトリプレット(GACやGUC,GGC,GCCなど)が蓄積していき、アンチコドンに相当するGAC(GUC)やGGC(GCC),GUC(GAC),GCC(GGC)を中心とするオリゴヌクレオチドが生成され、これが原始tRNAとして機能し、最初の遺伝暗号が確立した・・・というのが筆者の主張する考えだ。

 そして何より,化学進化のみで全てのストーリーを説明できるというのがすごい。偶然の事件を必要とせず,たまたまある条件になったとかいうようなご都合主義の展開もなく,パンスペルミア説のような問題先送りをすることもなく,4種のアミノ酸からすべてを説明していくのだ。このあたりは,10の公準からあらゆる幾何学の定理を導き出していくユークリッド幾何学を思わせるほどだ。


 このGADV仮説の根底にあるのは 「単純なものから複雑なものへ」、「ランダムな配列から特異な配列へ」、そして 「機能から情報へ」 という3つの大原則である。この3大原則は極めて理にかなっていると思う。そしてこれこそが、RNAワールド仮説への強烈なアンチテーゼとなっている。

 「最初にRNAが化学進化によって自然に生成され、それがDNAに進化し、タンパク質合成に結びついた」 というのがRNAワールド仮説だが、それは 「複雑なものから単純なものへ」 であり 「情報から機能へ」 と論理が逆立ちしているのだ。しかも何より、RNAというアミノ酸より遙かに複雑な物質が化学進化によって生み出せたのか(例:核酸塩基が自然生成されたとしても、そこからヌクレオチドが化学進化したという仮定が説明できない)、「原初RNAが酵素であり(=安定した構造を持っている)、同時に遺伝子の鋳型である(=鋳型から複製を作る際にほどけないといけない)」 という自己矛盾を内包しているのだ。

 また、細胞膜の起源についてもRNAワールド仮説では全く説明されていないが、GADVワールド仮説では 「タンパク質膜⇒脂質膜」 という過程が明確に無理なく説明できる。同様に、現在、生命体が利用するアミノ酸が20種類に限定されていることについてもかなり明確に説明している。


 このような挑戦的で魅力的な仮説を提唱している池原健二先生は実は生物学者でもなければ古生物の専門家でもない。理学部化学科機能化学講座の教授であり、専門は工業化学である。そして工学者としての視点から 「物質としての4種のアミノ酸」 について徹底的に実験を重ね、現実に存在する細菌の酵素の構造と機能を分析し、その分析から 「酵素(=機能するタンパク質)であるために備えるべき共通条件」 を割り出し、それらをもとにこのGADVワールド仮説に行き着いたのだ。

 恐らく,生物学者はこのような発想はできないと思う。生物学では 「蛋白質と遺伝子では遺伝子のほうが重要」,「タンパク質の機能を決めるのはアミノ酸配列である」 といったことを(無意識的に)大前提としてしまうからだ。要するに,生物学の専門家であるということが自由な発想を縛り付けてしまうのだ。多分,池原先生は化学者だからこそ,生命の本質をアミノ酸という 「モノ」 に置き,「モノの特性」 を徹底的に考えることで,物事の本質に迫れたのではないかと思う。

 また、当初、RNAワールド仮説が提唱された際に熱狂してそれについて勉強していくうちに、この仮説の持つ論理矛盾と論理の穴に気がつき、その 「矛盾と穴」 を放置してRNAワールド仮説を信じることができなくなって・・・という葛藤を経て新理論を考え出したというあたりも、科学者としての良心と誠実さを感じさせる。同時に、自身が提唱するGADVワールド仮説の未解決の問題をわかりやすく列記しているところも素晴らしいと思う。

 それ以外にも、初期生命体にとっては高機能なタンパク質を作るアミノ酸配列でなく、ランダムな結合でも機能性タンパク質を作り出せるアミノ酸の種類とアミノ酸組成の方が重要であるとか、糖質代謝や脂質代謝の随所にアミノ酸代謝が絡んでいる理由とか、細胞膜が脂質に切り替わった理由など、生命現象の根元に迫る知識が満載であり、その意味するところは極めて深いのだ。


 現時点で判断すると、本書が提唱する 「GADVワールド仮説」 は生命誕生の謎に最も肉薄している理論体系のように思われる。

(2012/11/19)