最近,地図や地形を扱った本をよく見かける。1年前から「にわか東京都民」になったばかりの私も,東京の地形図や古地図に関する本を数冊書ってしまったくらいだ。そういう地図本,地形本の中で本書は断然異色を放っている。「地形」,「地図」,「時間」,「境界」そして「庭」という5つの異なるスケールで地図を見直しているのだが,そこから現れる地図の諸様相はこれまで誰も目にしたことがない地図だからである。異形の地図といってもいいかもしれない。しかし,その視点はどれも新鮮でだし,説明は極めて説得力に富んでいる。地図について語りながら,その背景には深い都市文明論があり,それはやがて文明の本質的なところにも繋がっていく奥の深さがある。そういう懐の深さが本書の魅力だ。
そして同時に,全ての文章,全ての図の解説文に英語の対訳が添えられているのである。つまり,本の文章の半分は英文,半分が日本語なのだ。おまけにその英語の文章はとてもしっかりしていて,私のような英語苦手人間が翻訳ソフトを使って四苦八苦して作った英文とはレベルが違うのだ。日本語で書かれた本なのに「ターゲットはグローバル」なのだ。これだけで私は著者を尊敬してしまう(何しろ,湿潤治療の英語解説文すら書けないでいるのだから・・・)。
例えば,上水道図と下水道図は全く様相が異なっている。上水道は主要道路に似た網目状パターンをとるが,下水道は自然の地形を利用せざるを得ないため,暗渠化された小河川の分布に一致するのである。つまり,上水道は都市パターンに一致し,下水道は自然地形に一致するのだ。そして,上下水道の在り方の違いを突き詰めると,それは「水を動かす動力源は何か」という問題に行き着き,やがて,植栽地への給水・排水システムに話が広がっていく。給水システムの本質は「雨」であり,排水システムの本質は「地形」だからだ。
また,「地形を眺める速度」という項目で,標高差を明示した地形図に山手線を重ね合わせた地図も面白い。山の手(=武蔵野台地)と下町には約20メートルの標高差があるが(御徒町方面から湯島天神に行く急勾配の坂がその例だ),本書の地図を見ると,品川から御徒町すぎまではほぼ平坦な下町を走り,上野を出たあたりから武蔵野台地の突端を大きく迂回して台地の側面を上り,日暮里から先はずっと武蔵野台地の高台と渓谷を縫うように走っていることがわかる。まさに,武蔵野台地(=山の手)を走る山手線であり,名前の由来がよくわかる地図だ。
あるいは,地上の地理と切り離された地下鉄の路線図が描くデフォルメされた位置関係の面白さ,そして,地下鉄路線図の地理的裏付けとしての皇居の存在なども,普段気が付かない視点だった。
さらに,「時間のスケール」では下水処理場を「早回しの干潟」と表現しているところも秀逸だ。人間の「汚水生産活動」が干潟の「汚水分解・浄化能力」を越えてしまったため,干潟の浄化プロセスを早回しする手段を考案したのだ。そしてこの「早回し」の思想が,過剰な都市消費生活を全ての面で支えている。
「建築とは水平な床を作ることだ」という説明も秀逸だが,その延長線上に街中に氾濫するキャリーバッグがある,というのがさらに面白い。要するに,都市のバリアフリー化は垂直移動ですら「水平な床の延長」にし,人間と荷物の移動をシームレスにした。その結果,持ち歩ける荷物の量が増大する。階段しか上下移動の手段がなければ手荷物は最小にせざるを得ないが,エレベータと通路の段差の解消がこの「手に持てる量」の物理的制限を一気になくしてしまった。そして,「移動の際に普段使っているモノを持ち歩きたい」という欲求に車輪付きキャリーバッグが適合し,そのキャリーバッグがさらに多くのモノを詰め込むことを可能にし,その結果,持ち歩くモノはさらに増えていく。まさに鶏と卵である。もちろん,キャリーバッグに入れて普段持ち歩いているモノ全てが「必要なモノ」かどうかは話が別だが・・・。
それまで誰も指摘して来なかった視点を見つけ,その視点からあらゆる物事を捉え直す作業はやはり面白いのだ。これぞ読書の醍醐味である。
(2013/01/04)