古代文明と気候大変動★★★(ブライアン・フェイガン,河出文庫)


 われわれの祖先がボノボやチンパンジーなどとの共通祖先から分かれたのが700万年前,そして,私たちホモ・サピエンスが地上に登場したのが25万年前だ。そして,この「毛のないサル」は今や70億人を突破するほど異常増殖している。そのきっかけを作ったのが今から1万8000年ほど前に最終氷河期が終わり,地球全体の気候が寒冷から温暖に変化したことだった。そしてわれわれのご先祖様は,遊動生活から定住生活へと「霊長類としてはありえない生活」を選択し,その延長として農耕を行い,それが後の「文明」を生んだわけだ。だから,都市文明も農業革命も産業革命も科学技術も,元をたどれば1万8000年前の定住生活開始に行き着くのだ。

 つまり,自然界の動物の一員に過ぎなかったホモ・サピエンスが,今日的な意味での「人間」に変化の第一歩を踏み出したのは25万年のホモ・サピエンスの歴史のうちの2万年であり,その2万年史を彩る様々な文明,王朝,帝国の栄枯盛衰をもたらした「原因」を鋭く追求していくのが本書だ。


 以前紹介したこの本では,なぜ特定の地域で「文明」が起こり,人類発祥の地であるアフリカや,最も古い定住地の一つであるニューギニアでそのような文明が起こらなかったのかを,穀物の原種の自生地だったのか,後に家畜になる動物の原種はどこにいたのか,という視点から説明していた。もちろん,これは非常に説得力がある極めて刺激的な説であるが,「コムギの原種の自生地だった」ということは直ちに「コムギの栽培を始める」理由にはならないし,「ウシの原種のオーロックスがいた」からといって「牛を家畜化しようと考える」わけでもない。

 本書はそのあたりの事情を極めて明確に説明する。ホモ・サピエンスは本来肉食動物だったが(これは腸管の構造を見れば明白である ),環境の変化に適応する形で様々な植物も食物とせざるを得ず,次第に植物食を取り入れていった。例えば,1万8000年前に5万年に渡る最終氷期が終わり,次第に温暖化していく過程で針葉樹林が広葉樹林に変化し,それに対応する形で大型哺乳類が移動・絶滅していくが,その変化についていけなかったのがネアンデルタール人であり,その変化をうまく乗り越えたのがクロマニョン人だ。

 この温暖化で,文明発祥の地である「肥沃な三日月地帯」はオークとピスタチオの森になったが,ピスタチオは「高脂質,高タンパク,低糖質」と人間本来の食糧である肉に類似していた(ちなみに,肉食で重要なのは脂肪摂取であり,脂肪の少ないウサギ肉を多食したアメリカ開拓民は「ウサギ飢餓」に陥った。問題は各種のドングリだった。ドングリも極めて優れた食べ物で収穫も貯蔵も容易だったが,焼いただけで食べられる手間要らずのピスタチオと異なり,ドングリは食物化するためには手間(=労働)を必要とした。動物相の変化を補うための手段としてピスタチオとドングリは強力だったが,その代償としてホモ・サピエンスは霊長類の本能である遊動生活を捨て,慣れない定住生活をせざるを得なくなった。


 文明発祥の地,メソポタミアはティグリスとユーフラテス,2つの川で支えられていたが,エジプト文明を支えたナイル川と異なり,ティグリスもユーフラテスも暴れ川だった。それは700キロでわずか30メートルと上流と下流の標高差がほとんどなかったからだ。頻繁に形を変える二つの川を利用しコムギを安定して作り,時に襲ってくる干魃に対処するため,人々は都市を作った。年ごとの自然環境の変化に対処するための防衛手段として「都市」が必要だったのだ。
 そのため,都市住民は年がら年中,土地を耕し,運河を掘り,運河に溜まった泥をさらってコムギを作り,できたコムギは穀物貯蔵庫で管理することになった。ヒトはいつしか,コムギを食べるために一年中労働する生活をするようになり,穀物管理者から労働の対価として穀物を配給されることになった。全ては,旱魃とその結果生じる飢餓から身を守るためだ。

 だが,地球規模の気候変動はそのような人間の努力をあざ笑う。地中海の偏西風が弱まったことでアナトリア高原(両川の水源地である)に雨が降らなくなったのだ。そしてメソポタミアの古代都市は崩壊した。

 5年,10年というタイムスパンで生じる災害に対応するために作った「都市」というシステムは,100年,1000年,あるいはそれ以上のタイムスパンで発生する災害には無力だった。小規模災害対策には万全だった「都市」というシステムも,大規模災害の前では脆弱だった。定住生活前のホモ・サピエンスだったら,このような異変に対しては「移動」という単純な手段で対応できたが,定住生活が数千年続き,都市でしか生活できなくなったホモ・サピエンスにとっては,川の水量が元通りに戻るようにと神に祈りながら,都市にしがみつくしかなかったのだ。


 エジプト文明を支えたナイル川は,メソポタミアの二つの川に比べると安定していた。もちろん,洪水の時期がずれたり川の水位が増減することはあったが,何年も続く干魃には見舞われなかった。これはモンスーン気候が水源地であるエチオピア高原に決まった時期に雨をもたらしたからだ。長年の経験からナイル川の氾濫時期を予測する技術に磨きがかかり,予測精度が上がり,「ナイルの氾濫を制御できる」と信じられていたファラオの神格性をさらに高めた。そして,神であるファラオを称えるためにナイル川沿いには幾つもの巨大ピラミッドが作られた。当時は強力なモンスーンにより,サハラは年間400ミリの降雨量を誇っていたのだ。

 だが,所詮は「数千年の安定」に過ぎなかった。熱帯収束帯がわずかに南に移動したため,モンスーンの雨はエチオピア高原を素通りするようになり,古王朝はこれまた呆気なく瓦解する。

 シュメール帝国もアッカド帝国もマヤ文明もアステカ文明も,短期間・小規模の災害には全く動じることなく繁栄を続けたが,温暖化による巨大氷床の融解とそれによる大西洋循環の停止,熱帯収束帯の移動,ミニ氷河期の到来,太陽活動の長期低下など,より大規模な変化,災害には全く無力だった。人口が増えて近隣地域にも都市(定住地)ができ,農業に適さない土地にまで開墾せざるを得なくなり,食料生産に従事しない人間の割合が増加すればするほど,どの文明も呆気なく崩壊した。
 どの文明も「この世の春」を謳歌していたが,実は限界スレスレまで膨張していて,その実情は綱渡り状態だったのだ。そして,細いロープが切れた途端に,都市そのもの,文明そのものが奈落の底に落ち込んでいった。


 これは何も古代文明に限ったことではない。本書冒頭で取り上げられているニューオリンズがそうだ。ミシシッピ川も不安定な川だったが,18世紀,この地を訪れたフランス人は町を建設して定住地とした。豊富な水資源が得られるからだ。
 そして町建設開始から数カ月後,最初の洪水が町を襲う。アメリカ先住民はそれを知っていて,洪水があるたびに高台に移動するという対策を取っていたが,フランス人は金輪際移動しないと決めていた。そして,大規模な川の改修工事を行い,堤防を作った。しかし,ミシシッピ川は数十年に一度,氾濫を繰り返した。そのたびに堤防は高くなり,上流に延長されたが,忘れた頃にさらに大規模な水害に見舞われることになった。
 現在のニューオリンズは100年に一度の洪水には安全になったが,21世紀に入り巨大なハリケーンが数年ごとにカリブ海から襲ってくるようになり,そのたびに町は水没を繰り返している。

 [3.11] の際,「100年に一度の津波にも耐える防潮堤」をあっさりと波が乗り越えてゆく様を私たちは目の当たりにした。「津波はどんなに大きくても100年に一度の津波に決まっている」という私達の思い込みは,所詮は自分たちに都合のいい「思い込み」に過ぎなかったのだ。


 本書を読むと,たかだか1万年の間に想像を絶する大異変が何度も起きていたことがわかる。例えば,北米のローレンタイド氷床の融解は数千年もの間,メキシコ湾流を完全停止させ,海水面の上昇をもたらし,溢れた地中海の水はエウクセイノス湖(現在の黒海)に滝の如く流れ込んだ。人口が少なく,簡単に移動できた時代のホモ・サピエンスはこの異変にも生き延びられたが,今の私たちは都市を離れるわけにいかず,しかも,70億もひしめいているため移住しようにもその場所すらない。
 100年に一度程度の小規模災害なら痛くも痒くもない現代文明だが,それより大きな災害に対しては,石器時代より脆弱なのである。

(2013/02/18)