天才と分裂病の進化論 "The Madness of Adam & Eve"★★★(デイヴィッド・ホロヴィン,新潮社)


 科学系の本はタイトルを見れば大体内容がわかる。むしろ,タイトルを見て「この本は何について書いてある本なんだろうか?」と疑問に思うものは極めて少数だ。まさに「名は体を表す」のが科学系の読み物だと思う。

 しかし本書は違う。天才と分裂病(統合失調症)と進化論である。3つの言葉が並んでいるが,全く無関係の3語が並んでいるようにしか思えないのだ。統合失調症は代表的精神疾患だが,それが天才や進化論とは結びつくとは思えないし,天才が進化論と関連があるなんて聞いたこともない。英語の原題は『アダムとイヴの狂気』だが,小説のタイトルとしてはありだと思うが,科学書のタイトルとしては謎めいていて意味不明に近い。どう考えてもトンデモ本じゃないかという気がする。


 ところが,本書は膨大なデータを元に緻密な論証を積み重ねて,驚くべき結論に到達するのだ。ものの見事に天才と統合失調症と人間の進化を結びつけ,人類進化に残っている幾つものの謎を明快に解き明かしていくのだ。多少くどいところはあるが,実に理路整然としていて,論理は明晰であり,論証には一点の曇りもない。

 本書で述べられる統合失調症の起源とその発症メカニズムについて,現在の精神科業界ではどういう扱いになっているかはわからないが,多分異端扱いだろうなと思う。事実,Wikipediaで統合失調症の原因の項目を見ても,本書の説は全く触れられていない。

 なお,本書では「分裂病」という古い病名を使っているが,それは,本書が日本で出版されたのが2002年で,日本精神病学会が「分裂病ではなく統合失調症という病名に変更しよう」と提言したのがこの2002年だったようだ。つまり,本書出版時には「統合失調症」というのはまだ一般に流布しておらず,一般読者には「統合失調症」では意味不明になってしまう。そのため,あえて「分裂病」という古いがわかりやすく馴染みのある病名を使ったようだ。


 さて,本書が提示する「統合失調症の本態」は,目の前の多数の統合失調症の患者を観察し,そこから得られた知識から過去500万年に及ぶ全人類史を見直し,再構築することで完成したものだ。気宇壮大とはまさにこういう考えのことを言う。その発端になっているのは

  1. 他の疾患と異なり,統合失調症発症率に人種差がない。
  2. 統合失調症の経過は工業先進国ほど重症で,発展途上国ほど穏やか。
  3. 統合失調症の家系には天才,発明家,科学者,哲学者,政治家,芸術家などが多い。
  4. 人類は500万年前から10万年前まではほとんど文化的発展がなく,地域差もなかったが,10万年前以降,急激に文化が発展し文化の地域差も多様になった。
  5. 人間とチンパンジーの遺伝子は99%共通しているが,行動も体型も全く異なる。
 

 という単純明快な事実だ。これらをすべて脂質代謝の変化で説明してしまうのである。これが面白くないわけがない。

 ほとんどの疾患には人種差,地域差がある。例えば皮膚癌,胃癌,乳癌には明確な地域差と人種差があるし,代謝性疾患,変性疾患についても同様だ。ところが統合失調症ではそれがなく,世界各地の民族で発症率は申し合わせたように1%前後らしい。しかも,統合失調症には家系内発生があるが,その発生様式は優性遺伝でも劣性遺伝でもない。これらの事実から著者は「統合失調症は人種の分離以前に発生した突然変異で,複数の遺伝子が発症に必要だろう」と考えたわけだ。


 同時に筆者は統合失調症とその関連疾患(読字障害,双極性障害など)に見られる症状,そして,統合失調症の家系に見られる特徴(宗教,芸術,科学的創造性,技術的創造性,暴力,サイコパス)が先行人類になく,現生人類の特徴と一致することに気がつく。一方,人類は500万年間,文化的にも技術的にもほとんど進歩していなかったのに(例:石器の形は数百万年間ほとんど変化していない),数万年ほど前,突如として道具を工夫し,絵を描き,宗教的感情に目覚め,他の部族や動物の大量殺戮を始めたのだ。
 これはまるで,500万年間の変化のない卵の時代から,いきなり幼虫も蛹もすっ飛ばして蝶が羽化するようなものであり,通常はありえない変化だ。つまり,変化のきっかけとなる「何か」が必要だ。その「何か」が統合失調症だったと本書の著者は推理する。

 そして,先行人類の遺跡の位置から彼らがどういう環境で生活し,そこで何を食べていたのかを丹念に調べ,彼らがアラキドン酸,EPA,DHAという脳の機能に必須の不飽和脂肪酸に富む食事をしていたことに気がつく。河畔や河口という他の霊長類のいない環境を生活の場に選んだのが先行人類で,彼らにとってそこで得られる食べ物を手当たり次第に口にし,食べられるものを選んだだけのことだが,結果的にこの環境で得られる食物には偶然にも不飽和脂肪酸が多かった。

 そして同時に,脂肪酸の代謝経路に生じた突然変異の結果,体内に脂肪酸をトリグリセリドの形で貯蔵できるようになった。皮下脂肪であり,長期の飢餓にも耐えられるようになった。そしてこの脂肪酸代謝経路の変化は一方で,脳の重量増大にも作用する。

 だが,いくら脳が大きくなり,脳細胞が増えてもそれだけでは意味を持たない。60万年前から15万年前の時期に,ホスホリパーゼA2サイクルの突然変異が起こり,脳のシナプスが増えたことで機能的な発達が始まる。短期記憶機能の向上が言語機能とコミュニケーション機能を発達させる。500万年間,ほとんど変化のなかった先行人類はこの変異を期に「絶えざる変化」への道にハンドルを切っていく。


 そしてこの方向にアクセルを踏み込ませたのが統合失調症の遺伝子だった。15万年前から8万年前にかけてのある時期から,現生人類であるホモ・サピエンスは突然,宗教感情に目覚め,洞窟の壁に絵を描き,動物の骨で笛を作り,道具に装飾をほどこすようになる。狩りの道具だった槍を大量殺戮の武器へと進化させ,弓という飛び道具を発明し,大型哺乳類を狩りで絶滅させるようになる。隣の部族と抗争を起こしては村の領土を広げ,水路づたいに移動しては棲息範囲を次々に拡大していった。500万年間,変化と無縁の生活を延々と繰り返してきた人類は突然,変化を希求しせわしなく行動し長距離を移動する生物となった。それもこれも,統合失調症遺伝子のなせる技だった。

 当初,統合失調症遺伝子を持つ人間は想像力と芸術性と技術開発の才能をもつ指導者であり,「神の声」を聞いたものはシャーマンになった。当時の食物は不飽和脂肪酸が多く,統合失調症の原因となる脂肪酸代謝異常の症状はマイルドだった。

 やがて人類は農耕社会となり,潅漑農業のために大規模集落が必要となった。そして食物は穀物主体となり,動物性タンパク質も野生動物から家畜主体に変化した。そして食物中の不飽和脂肪酸は急速に減少した。その結果,統合失調症遺伝子の負の作用が強く出るようになった。サイコパスだ。

 メソポタミアやエジプトなどの半乾燥地で穀物農業を行うには水の管理が必要になり,必然的に大量の労働力を動員することになる。当然,計画立案係と号令をかける指導者が必要になる。冷酷無慈悲なサイコパスの資質は,サイコパスを指導者に仕立てあげた。自分に従わないものは親兄弟でも平気で殺すサイコパスはやがて国王として君臨する。旧約聖書には無慈悲で残虐な国王の話が山ほど出てくるのが何よりの証拠だ。


 本書の著者は統合失調症をリン脂質代謝異常による全身性疾患と考えている。リン脂質は細胞膜の構成要素であり,脳は重量の6割を脂質が占める「脂肪の塊」だからだ。そして,脳神経同士の情報伝達において細胞膜が最も重要だ。だから,わずかなリン脂質代謝異常は他の臓器には大して影響はなくても,脳の機能には重大な影響を及ぼしてしまう。それが統合失調症とそれに関連する疾患(双極性障害,読字障害など)でと著者は結論づけている。


 なお,わたし的に嬉しかったのは,10万年以前の先行人類の食事について詳細な情報が得られたことだ。最終氷期以降の食については多くの資料があるが,それ以前となると創造と憶測で書いてある本がほとんどで,本書のように明確に述べているものはほとんどないと思う。
 また,狩猟採集生活から穀物栽培が始まった直後に体格が目に見えて悪くなり,身長が低くなっていることについても言及しているのもいい。

 さらに,「先行人類はサバンナの狩人ではなかった」というのも面白い。サバンナの動物であるにしても腎機能が悪すぎるし,何より「サバンナでの狩りは現代のライフル銃と車を使っても容易なことではない」からだ。こういうのを「地に足がついている思考法」という。

(2013/04/02)