炭素文明論(佐藤健太郎,新潮社)


 本書はアマゾンの書評などでは非常に評判がいい。だから,ある編集者からこの本が送られてきた時,ちょっとワクワクして読み始めた。「炭素という元素から読み解く人類文明史」はこれまでに類書のない視点だからだ。

 だが,読んでみると非常につまらなかった。既知の情報が羅列されているだけの本だったからだ。知識の羅列以上でも以下でもなく,全体を貫く科学観があるわけでもないし,著者ならではの人類史・文明史に関する新しい視点が提示されているわけでもない。
 そして,「炭素文明論」というタイトルなのに「文明論」が欠落しているのだ。私は「文明論」を読みたくて読み始めたのに,「文明論」が全くないのである。厳しい言い方になるが,これでは羊頭狗肉と言われても仕方があるまい。「炭素化合物についての雑学集」程度のタイトルにすればよかったのに,と思う。
 本書は要するに,種々の炭素化合物についての文献とデータを集め,コピペして文章にしているだけであり,優秀な学生が要領よくまとめたレポートみたいなものだ。

 なぜ,こうなったのかも大体想像できる。本書はもともと,ある総合月刊誌の連載で,それに加筆して一冊の本にしたものらしい。連載を始めた時点では,編集者から「炭素化合物についてのエッセイみたいなものを書いて下さい」と提案されたと想像する。何しろ人間社会は炭素化合物と切っても切れない関係にあり,しかも数は膨大である。連載ネタに困ることはない。

 問題は,サイエンス・ライターである著者がすべての炭素化合物に精通しているわけではない点にある。だから,あまり精通していない化合物についての記事は,その化合物に関する歴史やエピソードを検索してそれらをつなぎあわせて書くしかない。
 つまり,「炭素化合物と人間の関わりを紹介する」という方針で連載が始まっただけで,著者独特の文明観とか歴史論があって書き始めたわけではないし,「種々の炭素化合物を通して人類文明の本質に肉薄する」というような壮大な目論見があったわけでもないと思われる。だから「文明論」が欠落しているのだろう。


 しかし,連載が続いてある程度原稿がたまると,出版社はそれを単行本にしようとするし,ライターも単行本化を希望する。

 かくして本書が執筆され,出版されたわけだが,本書の著者の最大の誤算は,出版時(2013年7月)に糖質制限・炭水化物オフが広く知られていたことだろう。2010年ころの「糖質制限以前の時代」なら本書の第1章,第2章の記述は正しいが,「糖質制限以後の世界」である2013年では全て間違いになってしまった。糖質に関する知識が逆転してしまったからだ。
 例えて言えば,「天動説から地動説に時代の常識が変化しているのに,天動説を紹介する本を出版した」ようなものだ。天動説の世の中に天動説の本を書くことは問題ないが,地動説の時代に同じ本を出したら「時代に取り残された可哀想な人・痛い人」である。

 要するに,時代はすでに「糖質と糖類は健康に悪いよね」なのに,本書はよりにもよって,デンプンと砂糖を最初の2章で取り上げ,デンプンと砂糖は健康に必要な栄養豊かな食べ物,と書いちゃったのだ。その結果,本書は「冒頭から古い常識,間違った知識が書いてある本」になってしまった。2013年7月出版の科学書としてはこれは致命的だ。


 例えば,本書の「人類を創った物質」という項目では,

190万年前のホモ・エレクトゥスが初めて火を使用し,加熱調理を行い,摂取カロリーが増加した。これと同時に脳の容積が急拡大したが,これは加熱調理が脳の発達を促したと見られている。
 
と書いているが,現在の最新の人類学では「火の使用」と「脳容積の拡大」に因果関係は否定されているし,「火の使用」によってヒトの個体数が増えたというデータもない。つまりこの説明は嘘である。

 あるいは,「社会の誕生」という部分で

農耕により,人々は定住するようになった。十分な食物が生産できるようになり,人口の急増をもたらした。
 
という説明は,すでに否定されている古い考え方だ。ヒトは農耕開始以前に定住生活を下からだ。つまり,「狩猟採集+遊動」生活から「狩猟採集+定住」になり,定住化をきっかけとしてヒトの個体数は増えたことが確認されている。「農耕の開始が人口増加の原因」ではなく,「定住による人口増加が農耕開始の原因」なのである。

 本書では,「不思議なことに,農耕開始以後,ヒトの身長は低くなり,平均寿命も短くなった」というデータを紹介している。常識的に考えれば,「農耕開始で低身長化と寿命の短縮が起きているとすれば,それは,穀物が栄養に乏しい食物だったから」という結論になるはずだが,著者は「穀物は栄養豊富な食品である」と信じ込んでいる。そのため,

米は究極の作物でありあらゆる栄養素をバランスよく含む食品だが,コメを食べるようになって日本人は低身長化した。
 
という文章になってしまった。明らかな矛盾である。それなのに,筆者は自らの文章に矛盾があることに全く気がついていない。


 これが,「第2章 人類が落ちた「甘い罠」 ー砂糖」になると,内容はさらに悲惨になる。

 例えば,

砂糖に代表される糖類は,動物が生命を維持するために最重要物質だ。(中略)血糖値が下がると,脳は生命維持に危険が迫っていると判断し,食事を摂れというシグナルを送る。空腹感とは,血中ブドウ糖濃度が低いこととイコールだ。糖類こそ生命維持の基本物質であることが,これからも分かる。(中略)最重要物質である糖類を口に入れた時,強い快感がえられるように進化したのは当然と言える。(中略)砂糖が嫌いという人はまずいない。
 
と著者は説明するが,この段落に書かれている文章が全て間違いで「正しいこと」が何一つ書かれていないのである。例えば,「砂糖に代表される糖類は,動物が生命を維持するために最重要物質だ」というのは,糖質を全く摂取しない肉食動物や草食動物が生命を維持できている」という事実を説明できないのだ。ありとあらゆる脊椎動物は,糖質を摂取せずに生命を維持ている,というのが生物学の常識だ。


 とりあえず,本書の改訂の機会があったら最初の2章を書き直すか削除した方がいいと思う。このままでは「トンデモ失笑本」の仲間入りであり,それは著者にとって本意なものではないだろうから。

(2014/11/20)