『自分の体で実験したい 命がけの科学者列伝』
(レスリー・デンディ+メル・ボーリング,紀伊国屋書店)


 薬剤の効果や毒性,発癌性を調べるには通常はマウスなどの動物実験が行われる。大概はそれで有用な情報が得られるのだが,どうしても動物ではわからないことが最後に残ったりする。

 例えば,創傷治癒に関する実験がそうだ。マウスやラットの背中に傷を作って被覆材や軟膏の効果を調べようと思っても人間に当てはまらないのだ。人間の傷とは違う治り方をするからである。げっ歯類に限らず,多くの動物は皮筋(人間は表情筋だけが皮筋である)が発達していて,それが全層皮膚欠損創を急速に収縮させてしまうためらしい。人間の皮膚に近い皮膚を持つ動物としては豚が有名だが,実験動物としては大型の部類に入り飼育することからして面倒だ。

 あるいは,他の動物には感染せずに人間にだけ感染する細菌なんて場合もある。有名な例で言うとハンセン病のらい菌 (Mycobacterium leprae) がそうだ。動物実験をしようにも感染しないのだ。人間以外で感染する動物は唯一つアルマジロだけで(現在は免疫不全のヌードマウスにも感染することがわかっている),動物実験自体が極めて困難だった。おまけにこの細菌が生存・増殖できるのは生きている人間とアルマジロの細胞だけで,通常の培地では培養できないのである。培養もできず動物実験もできないとなると,研究はほぼお手上げ状態となり,この病気の解明や治療が遅れた原因とされている。

 また,痛いとか苦しいとか痒いとか,そういう症状はマウスではなんとなくわかるけれど,その程度がわからないし,こういうのは人間様で実験しなければ最終的な結論は出せない。


 問題は,人間で実験をしなければ結論が得られないとわかったとき,どうするかだ。実験といっても安全なものばかりではなく,場合によってはかなり危険な実験も含まれるし,下手をすると命に関わってくる。しかし,真実はどうなのかを知りたい,という好奇心が勝ってしまったとき,一部の科学者は自分の体を使って人体実験したいという欲求を抑えられなくなり,一線を踏み越えてしまう。人体を使わなければどうしてもわからないことが立ちはだかっていて,しかもそれに大きな危険が付きまとうならば,他人を実験台にするわけにいかない。ならば自分でやるしかない,と考えるのだ。

 本書は,そういう自分で人体実験をした10人の命知らずの科学者の生涯と,行った実験をまとめたものだ。原題は "Guinea Pig Scientists",つまり,「モルモット科学者」だ。どれもこれも無謀で凄絶な実験に思えるが,彼らはその実験について徹底的に考え抜き,危険性をなるべく少なくする努力をして実験を行っているのだ。あるものは止むに止まれぬ使命感から,あるものは抑えきれない好奇心から,あるものは熟慮の末に一線を踏み越え,自分の体で実験し,冷徹な科学者の目でその経過を追い,冷静な筆致で記録を残した。その結果,命を落とした科学者も少なからずいたが,彼らの残した貴重なデータはその後の研究の礎となって研究を発展させ,多くの人の命を救うことになったのだ。


 本書で取り上げられた10の実験のうち,幾つかのものを紹介しよう。

 1770年代にイギリスのフォーダイスが行った耐熱実験は要するに,人間はどのくらいの高温に耐えられるかを調べるために行った。56℃の蒸気に満たされた部屋に長い時間滞在することから始め,最後には127℃で耐えられることがわかったが,なんとその高温でも体温が変化しないことを発見する。逆に言えば,体温が上がるというのはかなり異常な状態であることが初めてわかったのだ。

これを受けて,19世紀の医者たちは病人の体温の変化に注目し始め,同時に実用的な体温計の開発につながったという。


 同じ時期のイタリア人,スパランツァーニは食べ物が消化管の中でどうやって変化し,消化管の中で何が起きているのかを知りたくなった。今ならファイバーがあるが,何しろ18世紀である。そこで彼は,布袋にパンを入れて飲み込み,排泄物の中から布袋を回収した。布に変化はなかったがパンは跡形もなかった。ということは,布に染み込む何かがパンを消化したことになる。そして今度は,木を削って筒にし,そこに穴を開け,中に肉を入れて飲み込んでみた。木が体のどこかで引っかかったらどうなるか気がかりだったが,無事に筒は回収され,肉は消えていた。つまり,消化管の中では咀嚼のような運動は起きていないことになる。

 その後彼はさまざまな実験を繰り返し,消化に関するさまざまな知見を得たが,彼が導き出した結論は200年たっても揺るぎない真実だった。異物を飲み込んでみた彼の勇気も素晴らしいが,実験のために次々と奇想天外な方法を考案し工夫する発想の豊かさには脱帽するしかない。


 あるいは,ペルーの医学校に入って6年目の青年カリオンは,祖国のアンデス山脈の渓谷地方で流行し,多くの死者を出している「ペルーいぼ病」の原因を探ろうとしていた。時に1885年。今でこそこの病気はバルトネラ菌による感染症であることがわかっているが,当時は原因不明の風土病だった。

 カリオンは患者のいぼの血液に病原菌が含まれ,それが傷を介して次の患者に移動し病気が発症すると考えていた。だから,いぼから採取した血液を人に摂取して発病するかどうかを調べればいい。問題は,この病気が一旦発症すると死亡率が高いことだった。だからこそ他の人で実験するわけにいかない。

 そして8月27日,患者の血液で汚れたメスで自分の体に傷をつけた。しばらく症状は出なかったが,9月17日より体調が悪くなり,その後,意識混濁,血尿,出血斑とありとあらゆる症状が彼を襲う。彼はそれらの症状と所見を冷静に記録し,彼の意識が薄れてからは学友たちが記録を受け継いだ。そしてカリオンは10月5日に死亡した。墓碑銘には「医学校6年生 科学への愛に殉ず」という言葉が刻まれた。

 彼の死は大きな社会的反響を巻き起こし,この病気への国民の関心を向けさせ,病気の研究は一挙に進み,やがて病は撲滅されることになった。


 そして,1920年代に世界で始めて心臓カテーテルの実験を成功させたフォルスマン。彼は心臓の動き,そして心臓の内部の様子を見たいと思った。心臓疾患の治療がより確実に行え,人の命が救えるはずだと考えたからだ。彼は犬を使った実験を行い,腕の静脈から尿管カテーテルを心臓に入れられることを知り,それを自分で試そうとした。

 彼は当時まだ23歳くらいで,指導教授はそんな危険な実験は絶対に許さないと実験禁止を言い渡した。しかしフォルスマンはトリッキーな策を労して,ついに自分の腕の静脈を切開してそこから尿管カテーテルを挿入する。そしてカテーテルを心臓に到達させ,造影剤を注入してエックス線撮影することに成功する。その写真を見た教授は,実験の意義を理解し,画期的な技術を最初に開発したという論文を書くように勧め,1929年,25歳の青年医師の書いた論文は医学雑誌に掲載され,翌年に学会で報告した。

 しかし,ドイツ医学会は彼の勇気ある実験を理解しようとしないばかりか,「サーカスの曲芸」と嘲笑してフォルスマンを非難した。その後,批判が薄らいだ頃,ヨーロッパ全体の外科医が集まる学会で発表するが,ここでもまた「サーカスの曲芸」という非難が集中した。フォルスマンの実験の成果は明らかだったが,カテーテルを批判した医者たちはカテーテルは危険で無謀という意見を撤回することはなかった。そして,フォルスマンは心臓カテーテルの開発を許されず,失意のフォルスマンは心臓と血管の研究から手を引き,外科医に転向した。

 だが,フォルスマンの実験はアメリカ医学界に伝えられ,1941年,患者の検査にカテーテルが使われその有用性が示され,心臓カテーテルの開発が進むことになる。1956年,アメリカの研究者とフォルスマンは心臓カテーテルを考案し開発した功績でノーベル医学賞を受賞するが,母国で功績が認められたのは死後12年たった1991年になってからだったという。なお,危険な実験をしたという理由で彼を解雇した病院は,現在ではフォルスマン病院と名を変えているそうだ。

 世紀の大発見,命をかけた実験を否定され,そればかりか研究中止を医学会から強制されたフォルスマンの無念さはいかばかりだったろうか。学会や専門家が新発見に対して驚くほどの頑迷さと保守性を発揮することは珍しくないが,この心臓カテーテルにも同様の反応を示したわけだ。もしも1929年の時点で心臓カテーテルがもつ無限の可能性をヨーロッパ医学会が受け入れ,フォルスマンがカテーテルの開発に専念していたら,恐らくその後の心疾患の治療の歴史は大きく変わっていたのではないだろうか。その意味において,当時の医学界の傲岸不遜な頑迷さは人類に対する犯罪ではないかと思う。


 どんなに試験管レベルの実験や動物実験を重ねても,人間で実験しなければわからないことが残ることがある。それでもまだ実験を続け,真実を追究したいと思うなら生身の人間を実験台に使うしかない。危険のない実験ならボランティアを募って実験することが可能だが,多少でも危険を伴う場合には実験を続けるか中止するか,二者択一の選択になる。まして,あまりに危険すぎる実験の場合は,他人を実験台にすることは不可能だ。それでもまだなお知りたいことが残っていたら,意を決して自分の体を実験台にするしかない。

 すべてを知りたいという希求心,全てを明らかにしたいという探究心,自分の体はどうなってもいいから決着を見極めたいという好奇心,道がなければ自分が道を切り開いてやるという冒険心,そして,自己犠牲の精神とわずかな名誉欲・・・本書が伝える数々の人体実験は,これらが渾然一体となって実現したものだろう。


 自らの命の危険を顧みず科学への愛に殉じた彼らの熱い魂が読む者の胸を打つ。怜悧な頭脳と冷静な科学的思考を備えた無謀なまでの熱き実験野郎魂に喝采を贈り,感謝しよう。私たちが享受している安全な生活は,彼らの人体実験の上に成り立っているのだから。

(2008/03/28)

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