『メタマス! ―オメガをめぐる数学の冒険』 (グレゴリー・チャイティン,白揚社)


 非常に難解なのに,なぜか面白い数理哲学の書。白状すると理解できたのは全体の10%もなかったことは正直に告白しよう。特に後半のΩ(オメガ数)を巡る考察のあたりはひたすら文字を追うのみで,それすら辛く,理解すらできなかったのは事実だ。それでも最後まで読み進めたのは,著者の思考過程の明晰さと真摯な態度,さらなる完璧な高みを目指そうとする執念にも似た熱意が圧倒的な迫力で伝わってくるからだ。
 そして,読んで理解できないことがこんなに悔しかった本はなかった。こんな本がすらすら理解できたらどれほど気持ちいいんだろうと思った。


 表題の『メタマス』とは何か。メタ数学,つまり,数学には何ができるのか,数学にできないことは何なのか,数学の方法論が正しいといえるのか,数学の方法論が正しいことはどうやって証明できるのか,ということを研究する分野のことらしい。これを突き詰めていけば,加減乗除とは何なのか,数字とはそもそも何なのか,という領域に突入してしまい,それは自分が立っている地平そのものを疑い,考え方の土台そのものを再構築する作業となり,曖昧さを極限まで排除する思考過程を推し進めると,それは精神的安住の地を失ってしまうことになりかねない。

 数学は純粋な論理の世界であり,基礎科学の根底をなしている。だからこそ,物理学や化学といった基礎科学は数学的に正しいことが大前提となる。逆に言えば,数学的に正しければ,それは正しいことが証明されるという,科学そのものが拠って立つ土台といえる。


 だが,この「メタマス」で問題となるのは,数学の方法論,数学の論理が正しいとなぜいえるのか,という根本の部分である。足し算という計算法は宇宙普遍の方法なのか,数字という形に抽象化して演繹するという方法論は未来永劫正しいものなのか,という根源的な疑問が数学に突きつけられたわけである。

 医学には生物学や生理学という立ち返るべき地点があるし,物理学には数学という拠って立つ地点があるが,数学が数学自体の根本に疑いを持ってしまった時には,立ち返るべき原点がないのだ。それが「メタ数学」の苦悩であり苦闘なのだろうと素人ながら理解した。

 だからここでは,「数学の方法論の是非が,数学論理で判定できるのか」という問題にぶつかってしまうのだ。これがいかに困難な問題かは,「日本語特有の論理構造の問題点を,日本語で論じる」ことが可能かどうかを考えるとわかると思う。なぜなら,日本語そのものに内在する問題点は日本語しか知らない人間には見えてこないからだ。その言語特有の問題点をどの言語で表現するか,というのを考えるのは面白い試みだが,実際にやってみるのは大変だろう。


 日本語の根源的問題を論じるのであれば,あらゆる言語から一段高いところに位置する「普遍言語」が必要になる。それが「メタ言語」であり,数学の場合には「メタ数学(メタマス)」になる。そのようなメタ数学がどんな必要性から必要とされ,どのように発展してきたかを俯瞰するのが本書であり,その過程をスリリングに解き明かしている。

 例えば,ヒルベルトの公理的手法というアイデアも,数学的手法をより厳密に,より中立的にしようという努力から生み出された物であり,最初の試みだったと思う。彼が考えたのは,完全な人工言語を作り,推論と計算と演繹を行おうという試みだ。もしもこれが実現できたら,あらゆる数学の公理はこの人工言語で記述され,そこから自動的に定理が正しいかどうかの判断が下せるようになるはずだった。この彼の発想が後の「メタ数学」の萌芽となる。

 しかし,ヒルベルトの試みを根本から否定したのがゲーデルだった。ゲーデルは,その体系内で何が正しいかを明らかにするような,数学全てに対する形式的公理系を作り出す方法がないことを証明してしまったのだ。つまり,自然数同士の足し算においてすら,ヒルベルトの公理的手法計画は成立しないのである。

 それらを通じ,さらにコンピュータのLISP言語に精通する本書の著者は,数学には本質的なランダム性があることを見抜き,そのランダム性を追及する過程でオメガというランダム実数を発見することになったらしい(ここらについては何度読んでも理解できなかった)

 このあたりになると,本書はまさに「思考の極北」に足を踏み入れ,その論理の展開の緻密さは息をするのもためらわれるほどの厳しさだ。これに比べたら,医学の議論のなんと幼稚で呑気なこと,恥ずかしくなるばかりだ。


 このような超ハードな部分以外で,個人的に面白かった部分をについてちょっと。

 本書の前半部分は数学に多少でも関心がある人なら簡単に面白く読めると思う。素数が無限に存在するというユークリッドのエレガントで簡明な証明と,無限数列を利用してのオイラーの精緻な証明も面白いし,ライプニッツが2進法の中に見た宇宙の本質についての考察も非常に興味深い。そして何より,本書の著者の「教科書には知られていることが書かれている。しかし私は自分が知っていることを書かない。自分がまだ知らないことがどれほどあるかを書く。誰かに解決してほしいからだ」という姿勢が潔くて好きだ。


 2進法ですべての自然数が表せることと,2進法の計算に実に美しい規則性があることを示したのはライプニッツだが,それがコンピュータの基礎であることは誰でも知っている。すべての自然数は 0 と 1 に置き換えられるからこそ,それは電荷の有無に置き換えることができる。それがビットの世界であり,コンピュータの情報はすべて 0 と 1 で記憶され,演算の方法そのものも 0 と 1 で記述されている。

 ブリタニカなどの百科事典には人間のあらゆる思考や歴史や情報が収められているが,もちろんそれは文字情報でありデジタル化でき,実際,デジタル版の百科事典が売られている。つまり,人間が得たあらゆる知識は 0 と 1 で記述・保存できる。同様に,多くの絵画もデジタル化されているし,歌や演奏をmp3などで保存されている。現在,Googleが猛烈な勢いで過去の文学作品や書籍のデジタル化を進めているが,それはいうなれば,人類の英知を 0 と 1 で記述し記録しようとする作業ともいえる。

 そしてこれが無理数に絡んでくる。無理数とはご存知のように,π(円周率)e (自然対数の底)や2の平方根のように小数点以下が無限に不規則に続く数だ。無理数の無限に続く数字の列を 0 と 1 に変換すれば(偶数を 0 ,奇数を 1 とするだけでよい),人間が持っている全ての情報( 0 と 1 で記録できる)は一つの無理数で記述できることになってしまう。つまり,一つの数字の数列に,人間のあらゆる知識と叡智,芸術が記録できることになる。


 ちなみにこの本を読みながら,平方根の展開の仕方や計算の仕方を学んだ頃,無理数は有理数より莫大な数があるんだろうなと感じていたことを懐かしく思い出した。中学生頃だったと思うのでかなり雑な考察方法(もしかしたら間違っているかも)であるがちょっとお付き合いいただきたい。

 分数は小数点以下の数字は必ず循環する数字だ。1/3は0.333…と3が続くし,1/7は0.142857142857142857…と142857が延々と繰り返される。逆に,例えば,0.127412741274…という無限数列は1274が繰り返されていれば,ここから元の分数を見つけ出すのはそれほど難しくないし(中学生ならできますよね),この繰り返される数字がいくら長くても元の分数は必ず見つけられる。

 ところがこれが無理数の場合にはそういかない。例えば,3.1415926535897…であればπ,1.41421356…であれば2の平方根だとわかるが,

π=3.14159265358979323846264338327950288419716939937510・・・

?=3.24159265358979323846264338327950288419716939937510・・・
?=3.15159265358979323846264338327950288419716939937510・・・
?=3.14169265358979323846264338327950288419716939937510・・・
?=3.14150265358979323846264338327950288419716939937510・・・
?=3.14159365358979323846264338327950288419716939937510・・・

というように円周率の小数点以下の数字を1ずつずらして得られる数字(もちろん無理数であり実数だ)がどういう意味のある無理数なのかは人間には絶対にわからないし,「これは5の平方根」とか「こっちは3.253の平方根」というように表現することすら不可能だろうと思ったのである。しかも,この操作で作れる「πとちょっとだけ違う実数」は自然数の全体(=全ての有理数)と同じ無限個だけ作れてしまうのだ。

 まして平方根だけでなく立方根もあるし,4乗根,5乗根・・・が無限にあるわけだ。円周率一つをとってもその周辺には無限の無理数が存在し,それぞれに対し人間はその数字が何なのかを知る手段はないし,「円周率」とか「2の平方根」とか「117の立方根」のように表記できる(=名付けられる)無理数はごくごく一部だろうと考えたのである。無限に続く数字でしか表せない無理数という存在に,底知れないものを感じたのはこの時だった。


 話がそれてしまったが,カントールの無限集合に2種類あり,有理数の集合の濃度(アレフ・ゼロとカントールは名付けた)と無理数の集合の濃度(カントールは c と名付けた)が異なっていて,c がアレフゼロより大きいことを示したが,これは直感的には理解しやすいものだと思う。問題なのは,その中間の濃度を持つ無限集合があるかどうかであり,これが連続体問題であるが,これは100年かかってもまだ証明されていなかったはずだ。

 私が本書を読んで理解できたのはこれくらいしかない・・・というか,正しく理解できたかどうかすら怪しいものだ。だが,本書を貫く発想の自由さ,思考の厳密さ,そして本書全体からあふれてくる情熱に胸を打たれるのだ。だから,何とか理解できそうな部分があれば,そこを何度も繰り返して読んでいる。そして,少しでも理解できる部分を広げようと思っている。

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