楽譜と著作権:売れている楽譜はすべて著作権切れ


 青空文庫をご存知だろうか。著作権が切れた国内の文学作品をテキストファイルにして,誰でも自由に閲覧できるようにしようという素晴らしい活動をしている団体だ。実際,絶版になり図書館でも滅多にお目にかかれないような文学作品が簡単に入手でき,誰でも読めるようになった功績は大きい。要するに,無料のデジタル図書館である。

 そして,青空文庫は10周年を記念して,6500作品を収めたDVD-ROMを全国の図書館に寄贈するという計画を持っているらしい。これは図書館にとってもメリットだろう。何しろ6500冊の膨大な書籍がDVDに収録されているのだから,場所もとらないし,検索も簡単。また最近ではDSやPSP,あるいはMP3プレーヤーやポータブルメディアプレーヤーでも読めるようになったため,非常に便利だろう。


 なぜ青空文庫の話を最初に振ったかというと,本家の青空文庫とは違って「楽譜青空文庫計画」はことあるごとに楽譜出版社から潰されてきたという経緯があるからだ。青空文庫には書籍出版社から抗議が来たという話は最近は聞かないが,楽譜デジタル図書館計画(私が以前計画していたのもこれだ)については全部失敗している。最近の話では,IMSLPという楽譜ウィッキペディアのような活動も,ついにユニバーサル出版からの猛烈な抗議により閉鎖を余儀なくされと聞く。青空文庫同様,IMSLPも著作権切れの楽譜を掲示していただけなのに出版社からの猛烈な攻撃を浴びてしまったのである。

書籍と楽譜で何が違っているのか。

 楽譜の著作権問題を勉強していると,著作権自体というより,著作権に近隣する権利がゴチャゴチャとくっついていて,それが問題を難しくしていることがわかってくる。書籍にもそういうのがあるのだが,なぜか楽譜でだけこれが表面に出てくるのだ。

 このあたりは,楽譜がらみの著作権だけ正面から見ていても何もわからないが,「楽譜出版業とは何で飯を食っている業界なのか」を見るとよくわかる。要するに楽譜出版業界とは,著作権切れの作品で食っている業界なのだ。このあたりが,一般書籍の出版業界とは大きく異なっている。つまり,書店で並んでいる本のほとんどは著作者が生存しているのに対し,楽譜のほとんどは著作権切れのものばかりなのである。


 ピアノの楽譜に話を限定すると,売れている楽譜はバッハ,モーツァルト,ベートーヴェン,シューベルト,ショパン,リスト,シューマンが中心で,それ以降となるとドビュッシーくらいでラヴェルあたりになると演奏の困難さもあり,あまり売れなくなる。教育用の曲集はピアノを習い始める人口が減らない限りコンスタントに売れるだろうが,趣味としてピアノを弾く人(仕事としてピアノを弾く人よりは圧倒的に多い)が自腹で購入する楽譜となると,上記のものがほとんどだと思う。

 さて,これらのピアノ曲が作曲された時代に日本で書かれた文学作品を対応させてみよう。

【バッハと同時代】

【ベートーヴェンと同時代】

【ショパンやリストが頭角を現しだした頃の作品】

【ブラームスやワグナー,チャイコフスキーと同時代】

【ラフマニノフのコンチェルトやマーラーの交響曲と同時代】

【ラヴェルのピアノ曲やストラヴィンスキーの春の祭典と同時代】


 つまり,バッハのインヴェンションや平均率が楽器店の店頭に並んでいるのは「仮名手本忠臣蔵」が本屋さんの店頭に並んでいるのと同じだし,ショパンのワルツやシューマンの謝肉祭が売れているのは「東海道四谷怪談」や「偐紫田舎源氏」がベストセラーで本屋さんの店頭に平積みされているようなものだ。書籍の青空文庫が出版社から訴えられないのに,楽譜の青空文庫が出版社から攻撃される理由はここにある。

 書店の店頭に「偐紫田舎源氏」や「小説神髄」を置いてあるだろうか。まず,置いてないだろう。上記の本のうち,書店で売られているのは多分,漱石か鴎外くらいではないだろうか。そして,出版社が出版しているのも,店頭で売れているのも,大部分は20年以内に書かれたものだと思う。それ以前の小説は置いても売れないし,ましてや明治初期や江戸時代の書籍となると読む人すらまれだろう。だから,著作権切れの書籍を青空文庫がただで配ろうが,それがコピーされようが,商売には全く無関係なのである。だから,青空文庫を攻撃する必要もない。


 ところが,これが楽譜出版社となると話が違う。何しろ売れている楽譜は江戸時代から明治中期,せいぜい大正時代に作曲された曲ばかりなのだ。著作権が切れていない楽譜は売れず,著作権切れの楽譜しか売れないのだ。つまり,楽譜出版業界にとっては「著作者の死後50年間の著作権保護」なんて言われたって,自分たちの商売の保護にはなっていないのだ。

 これはポピュラー音楽とクラシック音楽にもいえる。クラシックのコンサートで演奏されるのは同様に江戸時代から大正時代までが大半で,CDで売れているのも同じ時代のものばかり。この点は,ポピュラーの分野では新しい音楽ほど人気があって売れているのと全く逆である。

 このような背景を持つ楽譜出版業界と一般書籍出版業界では,同じ著作権法といってもかなり異なっているはずだ。なぜかというと,本来の著作権法を守っていては商売にならないからだ。江戸時代や明治時代の楽譜しか売り物がないから,「著作者の死後50年」なんて言っていられないのだ。ではどうしたらいいか。本来の著作権のほかにいろいろな権利を付随させ,そういう周辺権利を主張して飯を食うしかない。

 楽譜出版業界やらクラシック音楽周辺の著作権がやけにゴチャゴチャしていてわかりにくいのは,このためだろうと考えられる。楽譜使用料を払え,昔の録音を放送で流すな,著作権切れの楽譜でもコピーするな,楽譜をただで配るな,と著作権本来の概念からするととんでもないことを主張しているのは,要するに,著作権切れのものしか売るものがない,売れるものがないからである。だからこそ,自分たちの食い扶持を確保するために,著作権切れの商品をもっともらしく売り,著作権切れのものであっても自由配布するなと攻撃してくるわけなのだろう。


 さて,そこで思考実験をしてみよう。世の中から楽譜出版会社がなくなったが,著作権切れの楽譜はデジタル化楽譜を配布する「楽譜青空文庫」から,誰でもネットから自由に手に入れることができる,という状況で何がどうなるかだ。誰が困るかだ。

 まず,ほとんどのピアニストもピアノ教師もその生徒もピアノ愛好家も困らないことは明らかだ。必要な楽譜(バッハやベートーヴェンやショパンやドビュッシーなど)はいつでも自由にネットから入手できるからだ。著作権が切れていないピアノ曲もあるが,それらはほとんど演奏されることはないし,聴く機会もない。だから演奏しようという気にもならないし,楽譜も必要ない。そもそも,その曲の存在自体が知られていないからだ。

 作曲家は困るだろうか。恐らく困らないはずだ。そもそも楽譜そのものが売れていないし,商業ベースに乗っていないからだ。作曲で食うためには楽譜出版以外の手段を見つけるしかない。

 唯一困るのは,楽譜出版業者だけだ。「著作権切れ楽譜」を売ることが唯一の生活の糧だからだ。


 「著作者の死後50年間は著作権を保護しよう」という著作権法が定められたとき,最も慌てたのが楽譜出版業界,クラシック音楽業界だったのではないかと思われる。「著作者の死後50年の権利保護」が自分たちの商売に結びつかず,それどころか,著作権法の基本理念が自分たちの商売を破壊するものになってしまうからだ。これにはさぞかし困ったのではないだろうか。

 文学作品は同時代のものほど好まれるのに,音楽作品は同時代のものが嫌われ,18世紀,19世紀の作品が売れ筋商品なのか,という問題は非常に興味深いものだ。要するに,作曲家側の「好み」と,聴衆側の「好み」が完全に乖離しているのだ。この問題については,そのうちまた書いてみようと思う。

(2007/11/21)

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