《存在の耐えられない軽さ》 (1988年,アメリカ)


 以前から,格好いいタイトルの作品だな,どういう映画なんだろう,と気になっていた映画であり,このタイトルに惹かれて見てしまった。


 で,いい映画か悪い映画かと単純に分ければ,もちろん,いい映画だと思う。真面目に丁寧に作られているし,内容もずっしりと手応えがある。舞台となっているチェコの風景やプラハの町並みは息を呑むほど美しい。そして,2人の女優さんがすごく魅力的で,おまけに裸もすごく綺麗!

 だが,手放しで褒めるかといわれると,ちょっと待ってね,という感じである。なぜそうかを説明しようと思うんだけど,それがまた大変なのだ。

 これはチェコ出身でフランスに亡命した作家ミラン・クンデラの恋愛小説を基にした映画で,3時間近い大作である。舞台はチェコで,1968年の「プラハの春」を背景にしているが,この「プラハの春」が何なのかを知らないで見ると,一体何が起こっているのかを理解できない映画だろう。だが,「プラハの春」が理解できていれば全てが判るという映画でもない。この当たりが困るところだ。しかし,一応最低限の知識はあったほうがいいと思うので,ちょっとこの歴史的事件の解説をちょっと・・・。


 1960年代後半といえば米ソの冷戦の真っ只中である。要するに,世界がアメリカ陣営とソビエト陣営に分かれ,互いの存亡をかけて地球規模の陣取りゲームをしていた時代だ。チェコスロバキア(現在はチェコ共和国とスロバキア共和国に分裂している)はソ連陣営で,1967年まではガチガチの親ソビエト政権が支配していた。しかし,1968年にドプチェクが共産党第一書記に就任することによって,様相が次第に変わる。彼はそれまでの指導者であるノヴォトニーの方針を批判し,検閲などを廃止し,チェコスロバキアに少しずつ自由な風が吹くようになる。そのためドプチェクの時代は「人間の顔をした社会主義」と言われていた。

 しかしそれが親玉ソビエト(ちなみに,当時の指導者は第一書記のブレジネフ)の逆鱗に触れた。ドプチェク政権の方針はソビエトを批判するもの,つまり反革命であると断定し,同年8月,ワルシャワ条約機構軍(もちろんソビエト軍が主導)が突如,プラハの街中に進行し,一夜にしてプラハを武力占領したのだ。ドプチェクはソビエト軍に拘束されてソビエトに連行され,その結果として,ソビエトに都合のいい政権,要するに傀儡政権が作られた。

 もちろん,この事態にプラハ市民は抵抗したが,所詮,圧倒的武力の前では無力である。アメリカは国連安全保障理事会でソビエトの即時撤退を求めたが,ソビエトの拒否権により否決されてしまう。悪いことに,当時のアメリカはベトナム戦争の泥沼の底でのたうち回っていた時期であり,アメリカ大統領ジョンソンはそれ以上積極的に働きかけることはしなかった。その結果,米ソの勢力圏は互いに不干渉という不文律ができてしまったのである。まさに歴史の分岐点の一つだった事件である。

 このような政治情勢を背景に,一人の男と,彼を愛する二人の女性を描いたのがこの映画だ。


 主人公はプレーボーイの脳外科医。画家の恋人がいるんだけど,目の前の女性はとりあえず口説いちゃう,というタイプで,手当たり次第に狩猟民族の本能を発揮する男である。そして郊外の病院に出張に行った時,ついでにカフェ(というのかな?)で働いていた純朴そうな女の子に声をかけ,結局その子がプラハにやってきて同棲を始め,はずみで結婚してしまう。とは言っても,画家の恋人とはずっと関係は続いているわけで,結婚したての妻(後にカメラマンの才能を見いだされたりする)は不満だし,何より不安である。

 妻はある出来事をきっかけに爆発しちゃって家を飛び出すんだけど,街角に出たらいきなり戦車が走っているのだ。彼女には,一体何が起こっているのか判らない。町の中を戦車が走るなんて悪夢として思えない。しかし,それがまさにソビエト軍侵攻だったのである。

 ここで,実際の「プラハの春」の混乱を撮影した当時のビデオ画面に,この映画の登場人物を重ね合わせるというすごい合成シーンがあり,それは圧倒的な迫力で迫ってくる。凄まじいシーンである。暴力的に市民の生活が蹂躙された様子が極めて自然に描かれ,市民がいかに抵抗したか,その抵抗がどういう結末を迎えたかが酷烈に描かれている。
 正直,このシーンだけでも見るべき価値があると思う。

 やがて,プラハの生活はどんどん息苦しくなっていく。迂闊にものも言えない社会になる。そのため,国境を越える国民の列ができる。主人公の医師と妻もスイスを目指して国を脱出する。


 スイス社会に脳外科医はすぐに入り込めるが,妻はカメラマンとして認められない。おまけに夫の浮気が再発してしまう。彼女は「あなたにとって人生は軽いものかもしれないが,私にとっては重いものなの。私はその軽さに耐えられない。あなたは図々しくて逞しくて強い。でも私は強くない。私は弱いものの国に戻る」という書き置きを残してプラハに戻る。この小説のタイトルはこの彼女の言葉からきている。

 そして,ほどなく夫も彼女の後を追う。しかし,国境を越える時にパスポートを取り上げられてしまう。脳外科医として仕事に復帰しようにも,以前発表した政権批判の論文がネックになり仕事に就けない。かといって,パスポートがないので海外に逃げ出すこともできない。

 結局二人はチェコの田舎に移り住み,畑仕事に精を出す生活を送る。村人たちにも受け入れられ,二人はようやく平安に包まれる。そしてその時,悲劇が起こる・・・。


 この映画のストーリーを大雑把にまとめるとこのようになると思う。色々なエピソードがあり,複雑な人間関係があり,それに政治の激動が絡んでくる。短いシーンにも色々な仕掛けが隠されていて,単純なシーンがほとんどない。深読みしようとすればいくらでも深読みできる映画だと思う。その意味では深みのある映画だ。

 しかし,この映画の最大の問題は,「結局,この3時間の映画で何を訴えたかったの?」というのが見えてこないことだと思う。主人公の妻の「この軽さに私は耐えられない」という言葉がこの映画(小説)のメインテーマだとすると,主人公の脳外科医が田舎暮らしをして妻を大事にするようになってよかったね,ということなんだろうか。だが,もしもそうだとすると,あの最後の場面はどんな意味だったの,という疑問が湧いてくる。「幸せの絶頂で不幸が訪れることもある。だから,刹那的に人生を楽しもうぜ」という意味なのか,あるいは逆の意味なのか,どちらにも取れるというか,どっちつかずなのである。

 だとしたら,この結末のためにこの3時間映画を作ったとすれば,結末はあまりに「軽く」ないだろうか。さんざん引っ張っておきながら,これだけだったのだろうか。


 もちろん,最後のシーンはとても美しい。妻の幸福な笑顔はまさに天上の美だ。最後に村人と踊りながら夫に笑いかける彼女の笑顔は,輝くばかりに美しい。このシーンだけもう一度見たいな,と思わせるほど魅力的だ。

 だが,彼女の素晴らしさと映画のメインテーマは別物だ。もちろん「結論は見た人が自分で考えてね」という映画は珍しくない。だがそれは「軽い」映画ならば許されると思うが,3時間映画で結論を出さないのは単なる逃げではないのか。


 それと,この映画はやたらとセックスシーン,裸シーンが多い。それも,やたらと多い。おまけに,どれもかなりきわどいシーンばかりだ。
 もちろん,どの女優さんもとてもきれいな裸身を披露してくれるし,プロポーションは抜群だ。それを見ただけでも「元が取れる」映画だと思う。しかし,映画全体を見終わった時,あのヌードシーン,セックスシーンは本当に必要だったのかと思うのだ。あそこまで執拗にエロティックなシーンを撮影する必然性はあったのだろうか。結局,この映画の監督は,クンデラの小説を素材にして,単に女優さんたちを裸にしたかっただけじゃなかったの,という気がしてならないのだ。

 確かに映画の前半の裸のシーンは,ドプチェク政権下の自由な雰囲気を示す効果なのかな,という気もしないでもないが,その後は裸シーンは必要あったのだろうか。


 無駄な裸シーン,エッチシーンを切り捨てれば,引き締まった90分映画になったはずだし,それでも十分に意味が伝わる映画にはなったと思うが,どうだろうか。

(2007/01/16)

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