『背信の科学者たち -論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか-』
(ウィリアム・ブロード & ニコラス・ウェイド,講談社ブルーバックス)


 本書は,いかに科学者や研究者たちが嘘のデータに基づいたデタラメを,もっともらしく発表してきたかを徹底的に明らかにしている。
 これを読むと,他人のデータ,他人の論文を頭から信じ込むことの危うさ,他人のデータや論文を「エビデンス」として引用することの危険性がよくわかる。よく,「一流雑誌に掲載されているから信用できる論文だ」というような発言をする医者がいるが,これはあまりにも無邪気なものだ。「一流雑誌だから論文も一流」なんて考えている医者は,それこそいいカモである。騙すならこういう医者である。いくらきちんと統計処理をしていても,元々のデータそのものが捏造されている事だって稀ではなく,そういう論文が一流雑誌に実際に掲載されているのだ。

 だが,あなたは実験をしていて「きれいなデータ,きれいなグラフ」にならない時,その部分だけデータを破棄してやり直したことがなかったろうか。ちょっとだけ数字を書き直したことがなかったろうか。わたしはある。何度もある。きれいなデータでないと気持ち悪かったからだ。きれいなデータでないと格好悪いと思ったからだ。
 だが,それ自体がすでにデータ操作なのである。無意識に行っているにせよ,それは本来,してはいけないことだったのである。


 昔は,教師や医者は聖職者と呼ばれていたが,今時,そんなことを言ったら失笑ものだろう。脱税をする医者もいれば,ロリコンで買春をする教師もいる。性癖と職業は無関係なのだ。同様に,政治家の汚職事件などが起きた時,「政治家が詐欺師になったのか,詐欺師が政治家になったのか」と憤慨するのも間違っている。政治の世界を職業に選んだ人間のうちで詐欺師が占める割合は,一般社会(母集団)で詐欺師が占める割合と同じなのだ。

 同様に科学者にはペテン師もいれば詐欺師もいるし,マザー・テレサもいれば赤ひげもいるのである。その割合は母集団と同じだ。最初から人を騙そうと考え,たまたま活躍(?)の場として科学とか医学をえらんだだけで,騙す相手として科学者とか医者をターゲットにしただけだ。

 ところが,科学者や医者は「この業界は善人しかいない」ということを前提にしている。「論文は批判的に読め」というが,データそのものまで疑って読んではいないはずだ。ここに最大の問題がある。要するに,「あいつはいけ好かない野郎だな」とか,「あいつは人間的に信頼できないな」と思っていても,そいつが出したデータは疑わないし論文の内容を疑うこともない。人間的に信じられない奴でも,彼の実験データは信じるのである。「研究者,嘘つかない」というのが基本指針だからだ。


 だから,最初から騙そうとしている連中にとって,「研究者は嘘をつかない」ことを前提にしているのが相手だから,赤子の腕を捻るようなものだ。これほど騙しやすいカモはいない。だから彼らは易々と騙しにかかる。

 科学者をカモにしたもっとも有名な例は,一世を風靡したイスラエル出身の超能力者,ユリ・ゲラーだ。これは本書でも詳しく取り上げられている。彼は読心術者としてアメリカ中を巡回してその超能力を披露し,著名な超心理学者や科学者が「彼の能力は科学では説明できない正真正銘の超能力だ」とお墨付きを与えた。

 しかし,彼の正体は手品師,つまりマジシャンだった。「一流のマジシャンにとって,科学者ほど騙しやすいものはいない」のである。実際,ユリ・ゲラーは科学者の前で彼の超能力を披露するのを好んだが,絶対に同業者であるマジシャンの前では絶対に行わなかったそうだ。科学者みたいに簡単に騙せるマジシャンはいないからだ。

 「科学者ほど騙しやすい」というのは,オウム真理教に多数の医者や物理学者,理系の学生が加わっていたことからも判る。彼らは科学的な訓練を受け,科学者社会(科学者村)の常識を身につけていたからこそ,いとも容易に騙されてしまったのだ。彼らは愚かだったからオウム真理教を信じたのでなく,科学者だったから信じてしまったのだ。


 それに加えて,インチキ論文がこれまた簡単に雑誌に載ってしまうのだ。なぜかというと,インチキなデータ,インチキ論文を排除するシステムがないからだと,本書は看破する。その根本の理由は,現代科学の仕組みそのものにあるのだ。

 現代において,科学者というのは職業の一つに過ぎない。職業だから,そこで出世したくなるし,収入も増やしたい。車のセールスマンなら売った車の数が出世の評価となるが,科学の業界では科学文献として公表された論文が評価基準になる。そして,政府からの研究助成金獲得競争とか,教授昇進に必要なのが,自分の名前が載った論文の長いリストである。それも,長ければ長いほど威力を発揮する。なぜかというと,管理者側・評価側はそれらの論文を読む時間的余裕が無いため,「質より量」で評価するしかないからだ。

 「論文は質より量」になったのは,本書によると20世紀後半かららしい。例えば,DNAのらせん構造で有名なワトソンがハーバード大学の準教授に申請したとき,彼の履歴書には18編の論文しかなかったそうだ。その中の一つが,クリックとのあの論文だった。今日,ハーバードで教授になろうと思ったら,履歴書に18の論文しかない時点で候補にもならないだろう。


 このような,文献重視,文献量重視の風潮は必然的に,科学雑誌,医学雑誌を増やし,さらにこれが論文氾濫にさらに拍車をかける。論文が必要な社会だからどんなゴミ論文でも掲載してくれる雑誌が必要だし(・・・これを必要悪という),そういう「ゆるい」雑誌の方が都合がいい。そのような医学雑誌・科学雑誌の論文は読まれず,売れないはずなのに,なぜかその雑誌が潰れることはない。雑誌の収益構造は,需要と供給という経済原理と無関係だからだ。こういう雑誌は実際,小部数しか発行されないが,出版社は制作費を「ページ料金」という形で論文の著者に負担させている。ここに経営の秘密があるのだという。

 おまけに,研究者の方は論文の数を増やしたいから,水増しをする方法を思いつく。一つの包括的論文を書くのでなく,第1報,第2報・・・と細切れ論文にするのだ。実際,医学雑誌を見ていると,同一著者による論文で,内容は殆ど同じで実験の条件だけ少し変えました,というものをよく目にするはずだ。本来ならこれらは一つの論文にまとめるべきなのだが,一つの実験で5つの論文が書けるとなれば,その誘惑に勝つことは難しい。そして,マイナーな学会雑誌などでは,論文が不足している事情があり,掲載論文は喉から手が出るほど欲しい。


 このような医学界の事情を知り尽くして,インチキ論文を量産して出世の手がかりにした人物がいる。1970年代の白血病の研究者アルサブティであり,当時,彼の論文は,毎月のように世界中の色々な雑誌に掲載されたという。本書ではその手口を詳しく説明しているが,要するに,医学雑誌に掲載された他人の論文をそっくりタイプし直し,著者の名前を自分に変え,タイトルをちょっと変え,その上で「無名の雑誌」に送りつけるというものである。その中には,日本の雑誌も含まれていたというのだから,念が入っている。

 考えて欲しい。例えば,日本国内の「○○学会雑誌」に英語論文が掲載されていたら,あなたはその論文を読むだろうか。多分,読まないと思う。少なくとも私は絶対に読まない。日本語論文だって,自分が興味のあるものだけをナナメ読みするくらいの時間しかないからだ。であれば,その論文がケニアの医学雑誌とか,スロベニアの雑誌に載っていた論文と同じ内容だ,なんて誰が気がつくだろうか。今日のようにコンピュータ検索が発達しても,論文タイトルが替えられてしまったら,同一論文かどうかは検索不可能だ。

 まして,医学雑誌は膨大な数が発行されている。癌治療の専門家だって,日本国内の癌治療専門雑誌の全論文を読むことは不可能だろう。まして,他国の雑誌をや,である。ここにアルサブティの付け入る隙があったのだ。


 科学雑誌・医学雑誌にいかにゴミ論文が多いかについても,本書は厳しく追及している。要するに,雑誌に掲載されて公開されている科学論文の大多数は,一度として引用文献として引用されていないのだ。引用されていない論文とはつまり,読まれていない論文か,読んで価値がない論文と判断されたか,そのいずれかだろう。この事実から本書は,「科学者の数を減らしても,科学の進歩の速度は変わらない」と断定している。科学を職業として選ぶ人間は増えたが,科学の進歩の寄与する人間の数は増えていない,というのが真相なのである。


 こんなことを書くと,「科学実験では常に追試が行われているから,追試できない発見は排除されているはずだ」という反論があると思う。しかし,本書によれば,追試というシステムは全く機能していないという。追試をしても何の特にもならないからだ。科学において栄誉を勝ち得るのは最初の一人だけで,二番手には何も与えられない。だから,最初に発表した人の実験を追試したところで,それは栄誉でもなければ価値ある仕事でもない。追試した人には何も与えられないわけで,追試するだけ時間の無駄である。そんなことをする暇があったら,その報告が正しいことを前提にしてさらに発展させる方向で新たな実験を始めるのがマトモな考えであり,そうしなければ研究者同士の競争には勝てない。要するに,追試・検証という確認作業は誰もしないことになる。

 このような事情から,大多数の論文は引用されることもないし,チェックされることもないし,追試されることもない。もちろん,読まれることもない。アルサブティが目をつけたのは,まさにこのシステム的欠陥だ。21世紀になってもこのシステムが穴だらけなのは,皆様ご存知の通りだ。


 科学者とは理知的人間だ,というのも根本的勘違いだ。科学者が信じるのは「その時代の科学の常識」であり,「その時代の科学の方法論」をはみ出ない範囲で研究するのが王道なのである。それをパラダイムと呼ぶらしい。要するに,ある理論体系があり,それを教える教育システムがあって先輩から後輩にそれが伝えられている限り,その理論体系は磐石である。それがパラダイムだ。天動説も燃素説(=フロギストン説)もパラダイムであった。

 科学の教科書,医学の教科書を読むとどうしても,科学や医学は一直線上に進歩してきたと考えがちだ。つまり,18世紀の医学の上に19世紀の知識が積み重なり,その上で20世紀の医学が生まれ・・・という印象を持ちがちだ。実はこれが大間違い。科学の歴史,医学の歴史は不連続なのだ。古いパラダイムの上に新しいパラダイムが作られたことはないのだ。「物が燃えるのはフロギストンが含まれているから」というパラダイムと,「燃焼とは酸素が爆発的に結合して新しい物質に転換する現象だ」というパラダイムは全く関係がない。決して,フロギストン・パラダイムの上に酸素・パラダイムが生まれたわけではない。

 本書でも指摘している通り,「新しいパラダイムの基礎となる新しい発見はたいていの場合,非常に若い研究者か,新たに提出されたパラダイムの分野の新参者によってなされる」のである。やがて,新旧のパラダイム擁護グループの間で論争が始まるが,それは宗教論争,神学論争の体を呈する。つまり,一つのパラダイムから別にパラダイムへと移行するのは「改宗」であり,両グループには共通する認識すらない場合が多い。従って,古いパラダイムの信者が新しいパラダイムの信者に宗旨替えをすることは極めてまれだ。


 では,どのようにしてパラダイムシフトが起きたのか。それは,古いパラダイムを信じる信者達がリタイアするか死亡し,新しい考えを初めから教えられた世代と入れ替わったとき,パラダイムシフトが起きたのだ。「知的な抵抗といえども,死という説得者の前には無力だ」という本書の言葉は痛烈だ。

 

(2006/12/18)

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