『医師ゼンメルワイスの悲劇 -今日の医療改革への提言-』(南和嘉男,講談社)


 本書では主に二人の医者が取り上げられている。一人は産褥熱予防に一生を捧げたゼンメルワイス,もう一人は虫垂炎治療の改革の先頭をひた走ったマーフィーである。二人の人生は明暗が分かれることになる。ゼンメルワイスは無理解と嘲笑のうちに息絶えたが,一方のマーフィーは虫垂炎による死から人類を救った英雄となった。この二人の明暗を分けたものが何だったかを分析し,今日の医療改革に生かそうと提言するのが本書である。


 今日の清潔操作による感染予防の基礎を作った医者,それがゼンメルワイスだ。当時,病院で出産することはきわめて危険だった。産褥熱により,産婦の10~30%(場合によっては50%を超えることもあったという)が死亡していたからだ。当時の優れた医師たちの知識と頭脳を集結しても防げない死病,それが産褥熱だった。

 その産褥熱にただ一人,敢然と戦いを挑んだのがゼンメルワイスだった。彼の武器は優れた観察眼と想像力,論理的分析力,そしてたゆまぬ努力だった。彼はウィーン大学の産婦人科助手だった。時に1844年。偶然,産科医になったが,産婦の多くが産褥熱のために生まれたばかりの赤ん坊を残して死んでいく現実に衝撃を受け,産褥熱が減らせないかと考えるようになった。しかし,当時の難病中の難病が産褥熱であり,それは医学の力では防げない「ミアスマ」という超自然的な「悪気」による病気だと考えられていた。

 ゼンメルワイスは同じ大学の第1産科(彼が属しているのはこちら)と第2産科(助産婦養成を目的とする)で,産褥熱の発生に大きく差があることを発見する(因みに1846年の第1産科の死亡率が11%に対し,第2産科は3%弱だった)。そこで彼は,この二つの施設の違いを徹底的に分析するが,二つの施設の建築や土壌をいくら分析しても違いは見つからないのだ。つまり,ミアスマは産褥熱の原因ではなかったのだ。

 最終的に原因究明の突破口となったのは,皮肉にも彼の親友の死だった。彼は解剖の際に腕に傷を作り,数日後に発熱などを起こして急死してしまったのだ。親友の病気の経過を聞いたゼンメルワイスは,それが自分が取り組んでいる産褥熱の症状とまったく同じであることに気付く。当時,傷が原因で起こる急激な発熱などは「創傷熱」と呼ばれていたが,実はそれは産褥熱と同じであることに気付いたのだ。となれば,産褥熱(創傷熱)の原因(病毒)は死体の中にあったことになる。親友を死に至らしめた病毒は汚れたメスを介して体内に運ばれたが,産褥熱の場合は何が運んでいるのだろうか。


 ここで彼は驚愕の真相を知る。産褥熱原因究明のために行っている病理解剖の際,自分の手に死体から病毒がつき,それが出産時の産道の傷に入り,産婦たちの命を奪っていたのだ。何のことはない,自分自身が病気の原因であり殺人者だったのだ。第2産科の助産婦たちは解剖をしないから,産褥熱が発生していなかったのだ。

 この事実に気がついたとき,彼は衝撃のあまり自殺まで考えたという。その事実の重さに胸がつぶれる思いだった。しかし彼は辛くも現実社会に踏みとどまる。彼はもうこれ以上の犠牲者を作らないために,産褥熱を撲滅することが自分に与えられた使命だと考えるようになった。


 彼は解剖を終えたあとは直ちに石鹸で手を洗うことにした。それでも臭いが取れないため,塩素水に手を浸し,ブラシで手の表面をこすることを考案する。さらに,爪の下にしみこんだ病毒を一掃するために,爪を短く切ってから爪の下をブラッシングすることまで考え付く。まさに現在行われている「術前の手洗い」そのものである。当時の医者たちには「手を洗う」という習慣が全くなかったのだから,ゼロから出発して完成の域にまで高めた彼の洞察力には驚嘆するしかない。

 そして,手洗いと手指消毒をするようになってから,第1産科での死亡率は激減し,あれほど猖獗を極めた産褥熱の発生は数%以下になった。だが,その成果を主任教授は認めなかった。虚栄心が強く,嫉妬心と猜疑心が異様に強かった人物らしい。後年,ゼンメルワイスを大学から追い出すために,「政治的に危険な反政府思想の持ち主だ」と政府に密告するような奴である。

 ゼンメルワイスはウィーンを追い出され,故郷のブダペストに戻り,そこで産褥熱だらけの産科病棟から産褥熱を一掃することに成功する。彼は,今こそ世界中の産婦を救うためにこの成果を世間に知らしめようと考え,一冊の本を書き上げ,ヨーロッパ中の専門家に送りつけるが,意に反して反応は皆無だった。有名教授たちを名指しした公開質問状を出しても,それに応じるものは一人もいなかった。なしのつぶてである。


 それどころか,産褥熱を討議する学会にゼンメルワイスは招聘されず,ゼンメルワイス抜きで,ゼンメルワイス説を非難する決議を出す始末だった。おまけにその学会では,当時最高の病理学者と尊敬されているウィルヒョウがゼンメルワイス説を徹底的に否定したのだ。彼はミアスマによる産褥熱発生理論の大家だった。これでゼンメルワイス説は息の根を止められた。
 「手を洗う」という簡単なことで救えたはずの多くの産婦たちの命は,手を洗わない医者たちによる産褥熱で奪われ続けた。1860年過ぎ,ゼンメルワイスは失意のうちに敗血症で息を引き取る。

 彼の考えが完全に正しかったことを証明したのは1870年代に長足の進歩を遂げた細菌学であり,コッホとパスツールという二人の天才であった。あと10年長生きしていれば,ゼンメルワイスは自分の勝利を確認できたが,神は無慈悲だった。


 なぜ,産科の教授たちはあれほどゼンメルワイスの説を無視したのだろうか。手を洗うだけで死亡率を劇的に下げることができたのに,なぜ手を洗おうとしなかったのだろうか。それにはさまざまな要因が絡み合っていたと,本書は指摘する。

 産褥熱は当時,最大の難病である。原因も分からなければ治療法もない「死の病」である。それをたかが助手になったばかりの無名の医者が予防できたと発表したわけだ。信じろと言う方が無理だろう。まして,手を洗うという簡単な方法で予防できてしまっては自分たちの権威は地に落ち,自分たちの無能さがばれてしまう。彼らにとっては,産褥熱は永遠に予防できない難病であった方が都合がいいのだ。

 ましてゼンメルワイスは,医者自身が産褥熱の原因であり,殺人者なのだと公言している。治療をしているつもりで患者を殺しているのだ,という事実を突きつけられたとき,医者はその事実を受け入るだろうか。これは究極の選択だろう。できればそれに眼を瞑り,耳を塞いでいたいはずだ。そうすれば,いつまでも自分は尊敬される教授であり名医であり続けられるからだ。

 産褥熱の学会にゼンメルワイスを出席させず,欠席裁判でその説を否定したのも同じ理由だ。おそらく彼らは,ゼンメルワイスの考えが正しいことを感じていたはずだ。ゼンメルワイスが明確に数字をあげて治療成績を出していたからだ。内心ではそれが正しく,反論の余地がないことを知っていたからこそ,激しく感情的な反発をしたのだろうし,付和雷同的にゼンメルワイス抹殺決議に賛成したのだろう。公開討論の場になってはゼンメルワイスに勝てないからこそ,ゼンメルワイスを学会に呼ぶわけにはいかないのだ。


 一方,虫垂炎治療も一人の医者が改革の先頭を走った。つまり,発端はゼンメルワイスと同じだった。しかし,それからの経緯はまったく異なっていった。時代が彼に味方した。

 19世紀後半にあっても虫垂炎(当時は盲腸周囲炎と呼ばれていた)は原因不明の難病であり死亡率が極めて高かった。治療といえば鎮痛のために阿片を飲ませ,腸を空っぽにするための下剤の服用しかなかった。要するに虫垂炎は内科疾患だったのである。

 しかし,1886年,一人の病理学者が病変の中心が盲腸でなく虫様突起であることを発見する。もしもこれが正しければ,阿片と下剤の治療はまったく意味がなく,炎症を起こしている虫様突起を切除するか,少なくとも切開排膿することが必要だという結論になる。彼はそれを学会で発表するが,虫垂炎を治療している医者たちは猛反発する。治療をしたこともない病理学者が何を言うか,そんなのが正しいわけがない,虫垂炎は阿片と下剤で治療するものだ,というのがその理由だった。


 そんな時に登場したのが,新進気鋭の外科医マーフィーだった。彼は虫垂炎治療改革の怯むことを知らない闘士であり戦士だった。彼は注意深く患者を診察し,その上で迅速果敢に手術を行った。「虫垂炎は内科の病気,外科医が治療するものではない」という医学界の常識と戦いつつ,早期の虫垂炎を発見・診断しては手術症例を100例,200例と増やしていった。その劇的な治療成績をもとに,「虫垂炎の患者を救うには早期手術しかなく,内科的治療を行うべきではない」と学会発表した。ゼンメルワイスが「医者の汚れた手が産褥熱の原因,医者が殺人者だった」と断じたように,マーフィーは「虫垂炎の高い死亡率は阿片と下剤による治療であり,それに固執する医者は殺人者だ」と宣告したのだ。

 当然,それまで虫垂炎治療をして来た医者たちは猛反発する。「医者が殺人者とは戯言を言うな!」と,学会場は怒号と野次の嵐に包まれ,彼は発表を続けられなくなる。マーフィーはいったんは引き下がらざるを得なかった。

 しかし,マーフィーの治療を若き外科医達が支持する。ゼンメルワイスは産科学会を相手にただ一人で戦いを続けていたが,マーフィーと内科医との闘いでは外科医達が彼を支持したのだ。この違いは大きい。しかも,新聞という当時最新のマスコミがマーフィーの治療を盛んに取り上げ,虫垂炎は手術で簡単に治るものだと繰り返し報道してくれた。これが追い風になった。
 やがて患者が「阿片と下剤の治療」を拒否するようになり,右下腹部が痛くなったらまず外科医を受診するというのが新しい常識となった。マーフィーの新しい治療を支持したのは患者であり,新しい時代の階層,つまり「市民」だったのである。


 ゼンメルワイスはちょっと早く生まれすぎたのかもしれない。もしも彼が1850年に生まれ,1870年代に医者になっていれば,彼の発見はコッホやパスツールに支持されただろうし,ウィルヒョウのような頑迷な旧世代の大家もいなかった。もう少し待てば,マスコミも発達しただろうし,マスコミは新しい階級,すなわち市民を生み出したからだ。ゼンメルワイスの1850年代はまだ市民社会は未発達だった。生まれる時期を選べないというのは永遠の真理だが,ゼンメルワイスの悲運の運命とは要するに,ちょっとした時間のずれが生み出したものだったのである。

 本書では繰り返し,ゼンメルワイスの悲劇が起きた原因を分析し,医学がそれ自身の保身に走ったとき,患者の命を救うをいう最も根源的な目的が忘れられてしまうと指摘している。まさに,組織は組織を守るために行動するのだ。組織防衛本能が発揮されたとき,「無理が通れば道理が引っ込む」のである。「道理が引っ込んだ」時に被害を受けるのは患者なのだ。


 この現象は現在でも私たちに無縁ではない。ラップ療法をめぐる日本褥創学会と鳥谷部先生のバトルがまさにこれである。ラップ療法のシンポジウムに鳥谷部本人を呼ばないのは,まさに19世紀の産科学会がゼンメルワイスを参加させないのと同じ構図で笑ってしまうしかない。公開討論をしようとしても,その場に上がってこないのは日本褥創学会であるが,自分たちが間違っていることが分かっているからじゃないだろうか。認めてしまったら,自分たちの権威も権益も崩壊してしまうからだ。だからこそ,「鳥谷部抜きでラップ療法の是非を問う」シンポジウムをするのだろう。なんとも悲惨な浅ましい姿を晒している。
 まさに19世紀的発想であり,愚かとしか言いようがないアホ学会である。自分たちの権威を守るために患者の利益を無視するという彼らの姿は極めて醜怪である。

 ゼンメルワイスとマーフィーと学会の戦いからすれば,日本褥瘡学会は日本褥瘡学会が推奨する治療を守るために今後もラップ療法を否定し続けるだろう,ということになる。つまり,この学会が自分で変わることはない。とすれば,どういう戦略を取ったらいいかといえば,もちろんマーフィー方式である。具体的に言えば,皮膚科学会方面での普及と,一般市民へのマスコミを通じての啓蒙である。要するに,日本褥瘡学会以外はラップ療法を皆でしている,という状況を作ってしまえばいい。事実,虫垂炎の治療はそのようにして変わったのだから・・・。


 ちなみに本書は1998年に出版されたものであるが,インターネットを通じて購入可能である。興味をお持ちの方は是非お読み下さい。

(2006/09/27)

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