外科医の目から見ると,人体というのは素晴らしくよくできている。例えば私は手の外科を専門にしてきた時期があったが,手の関節の構造,関節を動かす筋の配置の見事さ,複数の筋が協同して動く様などは,息をのむほど素晴らしい。同様に,眼科の先生は眼球の構造の見事さについてならいくらでも語ることができるだろうし,整形外科の先生は肩関節の構造の素晴らしさを語りだしたら,恐らく話が止まらないと思う。
だが,現在の人間の体は脊椎動物の進化,哺乳類の進化の結果として存在している。その経過中に新たに獲得した機能もあれば,やむなく失ってしまった機能もあるはずだ。そのようなさまざまな変化の痕跡が私たちの体に残っている。そして本書は人体と他の動物の体を比較することで,現在の人体の構造と機能の意味を明らかにしてくれるのである。
そして,進化の過程で我々が獲得した物と失った物を知ることで,さまざまな病気について全く新しい見方が生まれてくるはずだ。その意味において,本書を多くの医師に読んで欲しいと思う。人間だけを見ていても気が付かない,さまざまな視点,ヒントが得られるはずだ。もしかして将来,このような人体についての新たな視点から,新しい治療が生まれてくるのではないだろうか,とさえ思えるのである。
本書ではまず,鳥と人間の肩甲部の構造の違い,そして,ナメクジウオ(もっとも原始的な脊索動物)から哺乳類に至る心臓の構造の変化を示す。そこで明らかになるのは,「基本構造はなるべく変えたくない。変えるにしてもちょっとした手直しで対応したい。今ある物でなんとかやりくりしよう」という方針が貫かれていることである。本書の著者は人体を「何度も消しゴムと修正液で書き換えられた,ボロボロになった設計図の山」と表現している。
例えば,二本足で歩くという人間特有の移動様式を実現するために,どのように人体を変えてきたかが面白い。足で歩くために足底の骨配列の形を変え,筋の位置を変え,股関節の形状を変化させ,骨盤全体の大改革を行い,骨盤と大腿骨を連結する筋の機能を変え,それでも足りなくて,脊椎をS字状に曲げ,何とか実現しているのである。四つ足から二本脚へというのは,それだけ大変な変更の上で実現されているのだ。本書ではないが,「かなり無理をしている」のである。この「無理」が現在の私たちのさまざまな症状に結びついているわけである。
これは単に「二本足で歩くようになったから難産になった」というような単純な問題ではなく,「人間の体とはどのような論理の元に設計されたのか。現在の人間の生活様式は,体の構造にマッチしているのか」という本質的な問題に帰着するのである。
本書ではこの問題を,心臓・血管システムと脳の関係で説明する。人間は直立歩行を始めたが,これは心臓にとっても血管にとっても無理難題を突き付けるものだった。血液を垂直に押し上げようとすると,直接重力が邪魔をするからだ。そして無理に上に押し上げようとすると,今度は下肢血管系に無理がかかる。重力のために圧が高くなっているからだ。しかも心臓の血管も哺乳類の基本構造のまま,変更なしに利用しているのである。変更するだけの時間的余裕がなかったからだ。
おまけにこれに脳味噌が絡む。脳は頭のてっぺんにあり,全血流量の14%,酸素供給の18%を消費する。つまり,血流の大消費地が一番高いところにあるのだ。これを本書では「天井の放蕩息子・臑齧り」と表現しているが,まさに体にとってはその通りであろう。ということは,脳が満足するだけの血液を送り込まなければいけないが,それは同時に,心臓にも血管系にもかなりの負担となるのである。実際,ホモ・サピエンスでは立っているだけでもギリギリの血流量しか確保できず,脳の血流供給には余裕がないらしい。その結果,簡単に貧血が起きてしまうことになった。貧血が起こらなければ今度は高血圧である。
二足歩行というシステムを選択したまでは良かったが,そのてっぺんにあった脳味噌が予想外に発達し,それも急速に増大して血液を大量消費するとは,さすがのご先祖様(=初期ホモサピエンス)といえども予想外の出来事だったのである。同様の問題は,心臓・血管系だけでなく,人体のあらゆる部分に見られるらしい。
ホモ・サピエンスは立ち上がったことで手が使えるようになり,脳を発達させる方向に向かったが,19世紀以降の急激な科学技術の発達は自然を変え,環境を変え,さらに生活様式まで変えてしまった。しかし,ホモ・サピエンスの体は大昔からの基本設計を引きずったままであり,しかも,体の構造を変えて適応するにはあまりに急速な変化が起きてしまったのだ。
恐らく,人間の体は「何が何でも,そりゃあ無理だ。人間の体はそういう風にはできていないんだってば」とぶつくさ言いながら,それでも動いているのである。なにやら健気ですらある。
(2006/08/01)
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