《海の上のピアニスト》 (1999年,アメリカ/イタリア)


 多くの人がご存じであろう有名な映画です。大西洋を往復する大型客船のピアノの上に赤ん坊が捨てられて,それを見つけた黒人(船倉で働いている)が彼を育て,この船の中で次第に成長していくうちにピアノを弾くようになり,船で演奏するようになる,という物語です。船の中の世界しか知らない彼が,外の世界に一歩踏み出す勇気がなかなかなく,それが一つのテーマになっています。

 どうやってこの黒人が子供を育てたの,とか,ピアノの教育を受けた様子もないのに,6歳くらいの時にいきなりピアノ前に座って曲を弾きはじめたのはなぜ,とか,その曲がC.P.E.バッハあたりの古典派の曲なのはなぜ,とか,長いこと廃船になった船の中で彼が戦争中も生き延びていたというが食事はどうしていたの,とか,そういうところを気にしないで見てね,という映画です。寓話というかファンタジー映画です。

 通常,この映画の解説や感想というと哲学的な方面のものが多いのですが,私はピアノだけに着目してみました・・・というか,哲学的な思索をするのが単に苦手なだけですけどね。


 まず最初の,波に揺れる船の中でピアノの足のストッパーをはずし,フロアを縦横無尽に滑るように動くピアノを弾くシーン。まさに「ありえねぇ!」シーンなのですが,ここは本当に息をのむほど美しいです。ピアニストがピアノとワルツを踊っているようです。演奏しているのもワルツですが,かなり複雑で華麗なアレンジをしていて聞き映えがします。アレンジの雰囲気はちょっとStephen Houghの編曲に似ている感じです(「カローザルのワルツ」など)。元ピアノ編曲オタクとしては,この曲の楽譜が欲しくなります。ちなみに一部では4手演奏となります。

 続いて,ラグタイムの演奏。ここでの聞き所(見所?)は左手の跳躍の連続です。編曲オタク界では「シフラの剣の舞のような左手」という形容がありますが(?),シフラほどは凄絶ではないもののかなりのものです。できれば,上から撮影して手の動きを見せて欲しかったです。

 そのあとのモーツァルト風の曲。「こんな曲,モーツァルトにあったっけ?」と思っているとすぐに,高速の音階やら華麗なパッセージの連続になります。両手の反進行なんかもあり,演奏効果が非常に高い曲です。楽譜,見たいです。

 次はタランテラ。これも右手は3度の連続,左手は跳躍が連続しています。Rossini/Lisztの "La Danza" を彷彿とさせる華麗な演奏です。一部,同じ曲のHamelin編曲を思い起こさせます。


 そしてこの映画の山場の一つとされるジャズピアニストとの一騎打ち。「ジャズの発明者」と呼ばれる黒人ピアニストが相手ですが,実はここが一番問題。

 尊大なジャズピアニストがまず演奏するのは簡単そうなラグタイム。もちろん下手なわけじゃないんだけど,飛び抜けてうまいと言うわけではありません。演奏の難易度はツェルニー30番から40番程度です。
 今度は主人公の番なんだけど,主人公は全くやる気なし。簡単なクリスマスソングなんかを弾くだけです。
 頭に来たジャズピアニストはもう一曲演奏。ゴットシャルクとかナザレにこういう曲がよくありますね。タンゴの原型みたいな感じでしょうか。難易度はやはり大したことはありません。
 次に主人公の番ですが,なぜか,今ジャズピアニストが演奏した曲をそのまま弾いちゃう。いきなり「耳コピー」して弾けちゃうというのは実は凄いのですが,まだやる気がないというか,投げやりな弾き方です。

 そしてジャズピアニストが3曲目を弾くんですが,それを聞いているうちに主人公が豹変。「後悔させてやる!」と言ってピアノの前に座り,突然,猛烈なパッセージを弾きはじめます。突如,戦闘モードに入っちゃいますが,ここらの彼の心理状態の変化がなぜ起きたのか,何度見てもよくわかりません。
 問題はこの曲です。速いパッセージを音型はそのままで音域を少しずつ上げて行くだけの曲です。スピードは猛烈で途中からいろいろな音が加わりますが,基本的には練習曲のハノンと同じです。しかも途中から4手での演奏になっていて,画像でも4本の手になっていますし,実際にも2本の手では弾けない音の分厚さが連続します。

 で,この曲を弾き終えた後,熱を持ったピアノ線でタバコに火をつけるシーンがあります。ありえないシーンですが格好いいから許します。

 でも,なぜわざわざ4手で演奏したのか,映像でも4手で弾いている様子を写したのか,というのは疑問です。もちろん,主人公のピアノ演奏の素晴らしさを強調するために「1人なんだけど2人で弾いているように聞こえる演奏なんだぜ」と言いたいのかも知れませんが,それなら,そういう曲はいくらでもあるわけでそれを使えばいいだけのことです。それなのに,実際に4手でなければ弾けない曲(これはピアノが弾ける人なら誰でもわかると思います)を映画の中で流し,それを画像でも裏付ける意味はあったのでしょうか。


 大体,「ジャズの発明者」を自称するピアニストがこの程度の腕でプロのピアニストに勝負を挑むのは無謀です。普通なら挑戦状を叩きつけるなんて考えません。もしかしたら,「あの客船で弾いているピアニスト,素敵なジャズを弾くんだよ」という程度の話を聞き,ジャズといえば俺様だ,ジャズで俺に適うやつはいない,と考えたんでしょうか。喧嘩を売る前に情報収集をきちんとした方が良かったですね。

 ジャズ同士なら勝負もあり得るけど,この場合の相手は「クラシックの教育も受けていて(多分),ジャズも弾けるピアニスト」ですから,最初から相手になりません。これじゃまるで,ワープロソフトが使える人がプログラマ相手にコンピュータの知識で闘いを挑むというか,カレーくらいなら作れるぜ,という人間がフレンチのシェフに挑戦状を叩きつけるというのと同じです。やはり,相手を見てから喧嘩を売るべきでしたね。

(2006/07/03)

 

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