私,自慢じゃないが本はかなり読んでいる方だと思う。活字がないとウンコができない,活字がないと一人でご飯が食べられない,という一派である(・・・どんな一派だ?)。
そんな「本の虫」,「活字中毒者」の私がどうしても受け付けなかった本のジャンルがある。聖書などの宗教書と哲学書である。前者については,基本的に脳味噌が無神論向けにできているため,生理的に受け付けないと言うこともあったためでしょう。何より,一神教の思考システムが大嫌いだったし・・・。
後者についてはそれでも若い頃は,頭がいいとこ見せようとしてカントとかラカンとかウィットゲンシュタインなどを読んだ事があるけど,理解できないと言うか,「で,それでどうした?」というツッコミを自分で入れてしまい,途中で投げ出しちゃうのが常でした。頭が悪いんですね,多分。
例えば次のような文章が,全く理解できないんですよ。
つまり,リシャール的テマティスムは,最終的にひとつの意味に送り返したり,あるいは隠されたひとつの本質へと人を送り届けることはできないにしても,意味上の諸単位を,相互的転移を含みつつ,ひとつの遠近法のもとに描こうとする。(蓮見重彦,『知』的放蕩論序説)
これ,日本語で書かれていますが,私にとっては日本語ではありません。理解できない単語が連続するばかりなので,脳味噌が日本語として認識しないのです。私にとってこの文章は,ヘブライ語で書かれた占星術の本とかわりありません。要するに頭が悪いんです。
そういう哲学コンプレックス,思想書アレルギーに罹患している私が出会ったのが本書。もともとは漫画雑誌「モーニング」に連載されていた連載漫画で,さまざまな哲学,思想をとてもわかりやすく解説した作品である。しかも,料理の仕方が実に見事で,ある時はブラックユーモアであったり,ある時は時事風刺であったり,またある時はSF風にと,手を変え品を変え,毎回意表を突く展開で哲学を解説していくのだ。説明は極めて明晰であり,意表を突く例えをは実に適切なのである。おまけに,一話完結尾の読み切り漫画としても完成度が高く,桁外れの力作といえる。
あれほど難解で,何が書いてあるのか全く判らなかった哲学や思想がすんなりと頭に入ってくるのだから,作者の力量と知識は半端じゃないのである。そこらの哲学の入門書を読むよりは,余程ためになると思う。やはり,文字と画像が使えるという漫画の強みである。
この作品は上下2冊になっているが,主要な哲学者,思想家はほとんど網羅されているので,この分野について知りたいという人は,とりあえずこの2冊を手に取り,それで興味を持ったら「文字だけの解説書」に入った方がいいと思う。
と言うわけで,キルケゴールの「実存」とか,ラカンの「鏡像階段」がどういう思想なのか,ようやく理解できました。これからは,会話の端々に哲学者の言葉をさりげなく引用して,「君はもちろんフッサールのいうエポケーという言葉を知っていると知っていると思うけど」とか言って,頭のよさそうなフリができそうです。
ただ,哲学や思想が判った現在でも,「ふーん,いろんなことを考えるもんだな。でも,だからなんなの?」というバチあたりなツッコミを入れちゃうんですね。物質の根元とは何か,生きるとは何か,意識とは何か,時間とは何か・・・と,大哲学者の先生たちが生涯を賭けて追求し,到達した真理は判ったけど,それは私に何の影響も与えてないし,哲学者や思想家の考えに触れたことで何かが変わったわけでもありません。
どうも私はテツガク向きの脳味噌を持っていないみたいです。第一,次のような文章の内容が理解できなくても全然困らないしね。
しかし,哲学史においてかつて現れた本格的な形而上学批判,たとえばプラトン,カント,ニーチェ等において根底的な形而上学批判とその範型を比較すれば,デリダの批判が本質的に論理相対主義的,あるいは”帰謬論理的”範型をとっていることが分かる。つまり,鋭敏な読者なら,ここまで見てきたデリダの形而上批判の議論が,大枠の論理構造としてのティモンのそれとほぼ同型であることに気づくだろう。(竹田青嗣,『言語的思考へ』)
いま考えられているのは,A,B,C,D,の四人の男の子がいて,Bが<ぼく>であったのに,Bに何の変化もないまま,ただBが<ぼく>ではなくなって,単なる「ぼく」になってしまう,という状況だ。突然<ぼく>でなくなるということが考えにくければ,Bが<ぼく>である現状と,もともと<ぼく>ではなかった仮想状況を対比しても同じことだ。もちろんその場合でも,他の点では,Bに何の変化もない,と考えなければならない。(永井均,『<子供>のための哲学』)
(2005/12/09)
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