これまで人間は,限られた畑の中でいかにして多くの米や麦を育てるか,限られた小屋の中にいかに多くの鶏を育てるかを考えてきた。そして,いかにして雑菌のいない清浄な環境で生活するかを腐心してきた。それが文明であり,進歩だと考えてきた。
しかし近年,それではまずいのではないか,とする概念が提唱されてきた。それが「生物多様性の重要性」である。一つの生態系,一つの環境の中に多種多様な生命体が混在し,共存している状態である。本書では,生物学,農学などの専門家が,それぞれの立場からこの生物多様性について説明していて,それは耐性菌や院内感染の話にまで及んでいる。著者らは決して医学の専門家ではないが,医者には思いつかない観点から耐性菌について述べていて,それが非常に興味深いのだ。耐性菌の立場に立った院内感染についての説明は新鮮かつ明晰であり,とても多くのことを教えてくれる。
生物多様性という言葉をみると,私は反射的に生まれ故郷に広がっていたスギ林を思いだす。スギ林が生物の乏しい環境であることを,昆虫少年だった私(小学生の頃ですね)は実感していた。スギ林は昆虫採集に適さない,寂しい林だったからだ。
スギはまっすぐに伸び,成長の速い常緑樹だ。だから戦後の住宅難の時代に,日本中の広葉樹林が伐採されてスギやヒノキの植林が行われた。当時,ブナは役に立たない木の代表だった。だから日本列島はスギやヒノキの林で覆われている。これは各地を旅行すれば一目瞭然だ。飛行機から見ると,日本列島はスギやヒノキの緑の絨毯で覆われているのがわかる。
だが,スギ林に一歩入ってみると印象は一変する。スギ林の中は日中でも暗く,ジメジメしている。スギ以外の木は少なく,花も滅多に見られず,せいぜいシダなんかが生えている程度だった。
そしてスギ林には昆虫も少なかった。甲中類ではゴミムシやシデムシ,蝶ではヒカゲチョウ,それとアリとセミがいる程度で,あとはムカデやヤスデ,クモなどの私が好まない節足動物しかいなかった。それがスギ林だ。私にとっては「緑の林」ではなく,「昆虫のいない薄気味悪い林」だった。
その理由は,本書を読んで始めてわかった。何のことはない,針葉樹は広葉樹に比べて他の植物や昆虫,微生物などを排除しようとしているのだ。道理でスギ林は暗く寂しかったわけである。生物多様性に乏しい林だったのである。
これが私の「生物多様性」の原体験である。
農学の立場からすると,生物多様性の必要性は議論の余地がないものとなっているようだ。例えば,害虫や病気は同じ種の生物や均質な遺伝的性質を持つ生物の大集団で大発生しやすいし,天敵の種類が多いと害虫の増殖率が下がるという研究もある。要するに,一つの種類の植物しかいない状態は,害虫や病原菌にとっても絶好の環境なのである。競争相手が皆無で獲物しかいないからだ。ここで増えるのは楽勝だろう。
ところがそこに既に多種多様な生物が棲息していたらどうだろうか。その生物達の間には既に「食う・食われる,利益を受ける・利益を与える」という相互ネットワークができているはずだ。だからそこに新参者の生物(害虫や病原菌)が入り込むのは難しい。この,相互ネットワークが安定した環境を作っていて,それが生物多様性の本質なのである。
ところが現在の日本は,どんどん生物多様性を失う方向に進んでいる。例えば米がそうだ。明治中頃の日本には4000品種の米が栽培されていたが,現在では160品種のみで,しかも全水田面積の4割をコシヒカリが占めているのである。コシヒカリ寡占状態である。
もちろん,コシヒカリの値段が高く,味もいいために好まれているから,というのがその理由だが,これはコシヒカリをターゲットにした病原菌が出現した場合,極めて脆弱であり,全滅する可能性もある。しかし,多種類の米が栽培されていれば,旱魃が起ころうが平均気温が上下しようが,病気が発生しようと,収穫量の減少は抑えられることになる。要するに,多品種を栽培するのは,予期しない出来事に対する保険になっているのである。
これは人間も同じで,元来の人間は多種多様な生物に囲まれ,雑多な細菌がひしめく環境で誕生したはずだ。その環境に適応したから生き延びられてきたのだ。実際,現在の地球では,そのような環境で暮らしている人間の方が圧倒的に多いはずだ。
ところが日本を含めた先進国はそれを否定する環境,つまり「細菌のいない清浄な環境」を作りそれを理想としてきた。せっせと消毒し,除菌グッズを使い,なにかあればすぐに抗生物質を飲み,多くの日用品(歯磨きとか)には当然のように消毒薬が含まれている。
要するに,病原菌を排除して健康になろうというわけだ。それは逆に,病原菌に感染して免疫をつけるチャンスを失うことになる。確かにそれで感染症を減らすことができたが,もしも多種多様な微生物が棲んでいる環境に置かれたら,ほとんどの日本人は無防備である。生涯にわたって微生物と接触しないのならそれでもいいかもしれないが,それは事実上不可能であろう。
現在,少なからぬ野菜が工場で作られている。温度や湿度や光をコントロールし,栄養分たっぷりの培養液で育てられるから,野菜の成長は速いし栄養価も高い。しかも,閉鎖された環境だから害虫も病気の心配もない。何やらいい事ずくめに思える。
しかし,栄養たっぷりの培養液は細菌にとっても最高の環境だ。彼らは彼らで,そのような絶好の環境を求めて,隙あらば入り込もうとしている。だからこのような工場では,殺菌が絶対に必要であり,常に殺菌・消毒が行われている。常に無菌状態が持続できればいいだろうが,何らかの原因で殺菌作業が遅れた時に入り込んだのが,例の「O-157カイワレ大根事件」ではないか,と本書では推論している。
O-157は毒性は強いが繁殖力は弱い。だから,雑菌がウヨウヨしている培養液では繁殖することは不可能だ。O-157が繁殖できるのは他の細菌がいない「無菌培養液」だけである。それを人為的に作ってくれたのは,ほかならぬ人間である。
本書でも指摘されているが,耐性菌,毒性の強い細菌は一般に,繁殖力が弱いらしい。だから,いろいろな細菌が棲息しているところでは,彼らが入り込む余地はない。どうも,毒性とか耐性とかの能力を獲得する代償として,増殖能力を犠牲にしているらしいのだ。だから彼らは,毒性は低いが増殖力の強い細菌(いわゆる雑菌)が棲息する環境では繁殖できず,他の元気な細菌がいない環境になるのをひっそりと待つしかない。
このように考えると,消毒を一生懸命に行い,抗生物質をどんどん使う医療現場でしか,耐性菌感染が起きていない理由がよくわかる。要するに耐性菌は細菌界の日陰者なのである。日陰者が表舞台に立てるのは唯一,医者や看護師が無菌状態,無菌環境を作ってあげた時だけなのである。彼ら日陰者細菌は,医者と看護師の協力なしには,医療現場という表舞台には登場できないのである。
そして,本書の最後で取り上げられている焼畑農業と山火事の関係も面白い。オーストラリアでは先住民であるアボリジニが焼畑農業を行ってきたが,白人の移住するようになると,「そんな野蛮なことは止めて,農薬をつかった農業をするのが文明人」と,強引に焼畑農業を止めさせたそうだ。
しかし,焼畑を止めてから,大規模な山火事が増えるようになった。なぜかというと,焼畑が大規模火災を未全に防いでいたのである。アボリジニたちは長年の経験と知恵からある部分の草原を焼きはらっているのだが,実はそこが新しい畑になるだけでなく,山火事の延焼を防ぐ防波堤の役目を果たしていたのである。
これは文化の多様性が重要であることを示している。アボリジニの文化を否定し,ヨーロッパ文化を押し付けたことで,環境そのものが破壊されたわけだ。
毎回,同じような結論ばかり書くが,この本も多くの医療関係者に読んで頂きたいと思う。人間側の都合だけで感染症を論じても意味がないのである。どんな細菌であろうとも,他の細菌,他の生物との相互関係の中で生きていて,それ1種類だけで生きてはいけないし,それだけで生きているわけではないからだ。そして,その相互関係のネットワークの中に人間も組み込まれているのである。
細菌や感染症についても,そのような視点から問い直される必要があるのではないだろうかと思う。
(2005/08/16)
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