本書は鉄(Fe)という元素を軸に,宇宙と地球の歴史,生命誕生と生命進化の歴史,そして人類の文明の変遷を解きほぐし,さらに地球温暖化への効果的な処方箋を提示している力作である。そして何より,この一つの元素に着目して,宇宙と生命と文明を語る著者の力量と博識に脱帽するしかない。
鉄は宇宙が生みだした奇跡の元素である。
例えば,宇宙に存在する金属元素では鉄が飛びぬけて多いが,それは鉄の原子核は最も安定した構造を持っているためだ。そして,地球に限れば地球重量の3割から4割を鉄が占めていて,鉄の割合は他の地球型惑星(金星や火星)より各段に多く,そのため地球は他の惑星よりかなり重い。この重さが重力を生み,大気が宇宙に逃げ出すのを防いでくれた。
そして同時に,鉄は最も強い磁力を持つ元素である。地球の中心核は熱で融解した液体鉄であるが,中心部は高圧のため固体鉄となり,これが内核となっている。地球の自転により,この内核の周りを液体鉄の外核を一定方向に回ることで起電力を生じ,このため地球は一個の巨大な磁石になった。これが地磁気であり,この地磁気のおかげで致死的細胞障害性を持つ宇宙線や太陽風から生命が守られているのだ。
38億年前の地球に最初の生命が誕生したといわれるが,生まれたての生命を守ってくれたのはこの地磁気だった。
ちなみに金星には磁場はなく,火星の磁場も極めて弱いが,これは固体の内核を持たないためである。ここにも「鉄の奇跡」がある。地球以外の「地球型惑星」に生命が誕生したとしても,その生命体を維持するには宇宙線を防ぐ手だてが必要なのだ。
鉄は遷移元素の一つであり,遷移元素の特徴は配位化合物を作る点にある。生命活動に欠かせない酵素は,さまざまな金属を蛋白質との配位化合物の形で含んでいるが,鉄にしかない特徴として,二価の配位化合物と三価配位化合物で立体構造がほとんど変わらない,という性質がある。これは他の遷移元素にない特質であり,他の遷移元素と鉄を置きかえられない理由となっている。
おまけに,鉄は化合物を作るときに二価か三価の陽イオンになるが,両者の安定性の差は非常に小さいのである。エネルギーを使わずに電子のやり取りができ,しかもその際に立体構造が変わらないという鉄化合物の性質が加わり,鉄を中心とした電子の受け渡し(これが呼吸とエネルギー産生の本質である)に同じ鉄原子が繰り返し使え,安定したサイクルを作ることができる。これもまた一つの「鉄の奇跡」だ。
このような鉄の機能をうまく利用した酵素の一つがシトクロムでありヘモグロビンである。例えばヘモグロビンは酸素を運搬して筋肉内で切り離しても立体構造が変わらないため,何度でも繰り返して酸素運搬に使えるのだ。こんな便利な金属は他にはない。
また,地球に海が誕生したのは38億年くらい前とされるが,大気中に大量に存在する塩化水素を溶かし込んだ太古の海は強酸性だったと考えられる。当時はまだ酸素は存在しなかったため,鉄は酸化鉄にはなれず,鉄イオンのままで海水中に多量に含まれていた。この鉄を使い,最初の生命は効率的な電子の受け渡しシステム,つまり「呼吸」を手にいれたとされている。この二価と三価の鉄を利用してエネルギーを得るシステムを「鉄の輪」という。
しかし,生命体に取り込まれた鉄は,その生命体の死骸と共に海底に沈殿してしまい,次第に海水中の鉄濃度は減少する。そこで次世代の生命体は,その少ない鉄を取り込むためにさまざまな工夫をするようになる。最も古い蛋白質の一つとされるのがフェレドキシンも鉄を含んでいて,現在でも多くの生物がこの蛋白質を酸素呼吸などで使っている。
また,光合成を行う生物にも,この「鉄の輪」が利用されている。植物の陸地への進出の目的の一つは,陸地に豊富にある鉄を利用するためではないか,という考えられている。それほど鉄は生命体に必要であり,エネルギー代謝の根幹で働いている。
酸素呼吸は非常に効率がいいエネルギー産生システムだが,活性酸素という猛烈な毒物ができてしまうという欠点を持っている。そこで生物は,活性酸素を分解する能力を手にいれた。それがカタラーゼ,ペルオキシダーゼといった酵素だが,ここでも鉄は中心的な役割をしている。
このように考えると,地球は鉄が豊富にあるから生命が生まれ,進化の原動力になったのではないか,という筆者の考えは十分肯けるものだと思う。
そして,地球温暖化対策の切り札ともされている「鉄仮説(現在では,鉄理論と呼ばれている)」が1986年に提唱された。これは要するに,南極などの植物プランクトンが少ない海域で硫酸鉄溶液を撒くことで大気中の二酸化炭素を減らせる,という考えであり,現在,幾つかの海域で実験が行われ,実証されているのだという。
この理論の元になっているのは,南極海や赤道付近,あるいはアラスカ海は栄養塩(無機窒素化合物とリン)は豊富なのに植物プランクトンが少ない,その理由は「これらの海域では鉄が少ないから」という考えである。逆に,植物プランクトンが多い海域では,鉄は地表から偏西風などが運ぶ塵,あるいは海に注ぐ河川が供給されていて,鉄が多く含まれている海域に一致している。
そして,これまでに10回以上,世界各地の海洋で中規模実験が行われ,二酸化炭素を含んだ沈降物が実験海域の中深層で増加する事が確かめられている。要するに,鉄は前述のように生命体には不可欠の元素であり,しかも海には少ないため生命体にとっては貴重品であり,1分子の鉄があるとそれを数千個の他の原子で大事に包み込み,生命活動に不可欠の「鉄の輪」として生きている限り何度でも繰り返し使用しているからだ。
植物性プランクトンは二酸化炭素と光合成で生存に必要な蛋白質などを作るが,細胞壁は他の生物が分解できないため,動物プランクトンが捕食しても細胞壁だけは分解されず,細胞壁は糞として排出され,これらはやがて海底に沈んでいく。このため,植物プランクトンの細胞壁合成に使われた二酸化炭素は海底に固定されてしまい,二度と大気中に戻る事はなくなる。これが,大気中の二酸化炭素を減らす切り札とされる所以である。実際,鉄1原子あたり,10万個の炭素原子を固定するとされ,30万トン程度の硫酸鉄水溶液(ちなみに硫酸鉄は海水中に普通に含まれている)を海に撒くだけで,二酸化炭素をかなり減らせるのではないかと試算されているようだ。
地球温暖化対策といえば京都議定書というのが常識だが,実はこれには致命的欠陥がある事は知っている人は知っていると思う。現在,世界第2の二酸化炭素排出国にして,近い将来,第1番目になるだろうといわれている中国に削減義務が課せられていないからだ。理由は,中国は発展途上国だからである。そしてこの中国の後に,ブラジル,インドなどの「将来の二酸化炭素大量排出国」が続いている。だから,全ての先進国が京都議定書を完全に達成したとしても,二酸化炭素排出は2%弱しか減らないだろうといわれている。
「植林をして二酸化炭素を吸収してもらおう」という考えもあるが,植林をした樹木が二酸化炭素を吸収固定できるまでには10年以上かかってしまい,今,目の前にある危機を回避するにはあまりにのんびりした解決法である。何より,植林に適した土地自体があとどれだけ残っているのか,という根本的問題もあり,地上の緑を増やすのは理想だが,実は現実的な解決法ではない。
現時点で既に,南太平洋の幾つかの島や国が水没の危機に瀕している。アルプスの氷河はかつてない規模で解け出しているし,南極でも大きな氷塊が崩落している。この変化が長期的に続くものなのか,それとも一時的なものなのかという議論もあるが,もしかしたら,人類に残されている時間はそれほど長くないのかもしれない。少なくとも,南太平洋のいくつかの島国にとっては,10年という時間も残されていないようだ。
そう考えると,唯一,短期的に効果が得られるのは,この「鉄理論」に基づく処方箋ではないかという気がする。何しろ,海洋への硫酸鉄散布から数日で植物プランクトンの大発生が起こり,1ヵ月後には中深層への炭素を含む粒子の沈降が始まるのである。もちろん,この炭素はいずれ,深層流に乗って移動し,いつかは表層に顔を出すが,それは1000年以上先の話である(このあたりは以前に紹介した『南極海 極限の海から』という本に詳しく説明されていた)。数年後に訪れるであろう南太平洋の島々の水没に比べたら,はるかに先の問題だ。
もちろん,人工的に硫酸鉄を散布する事で動物プランクトンが大繁殖し,それで環境破壊が起こるのではないか,という議論もあると思うが,人間がこれまでにして来た環境破壊に比べたら,目クソ鼻クソのような気がする。
と,ここまで本書の内容を紹介して来たが,実はこれでまだ半分である。これからまだ,鉄という物質から見た人類文明の変遷が骨太な筆致で語られるのだ。恐らく,著者の経歴からして,ここからの部分が著者の新骨頂であろう。
例えば,鉄が常温で最も強い磁性を持つ元素であるという事実から,電気文明がもたらされた事を説明し,鉄の化合物も強い磁性を持ち,これが磁性体を生み,カセットテープからフロッピーディスク,ハードディスクになり,現在の情報化社会を支えているという事実を説き,さらに,鉄の分子構造(格子構造)の特性から加工しやすいという特性を持ち,そればかりか鋼という強靭な物質に簡単に変化できたため,武器,道具,建築物が作れるようになったことなどが説明されるのである。
そして,世界で最も早く製鉄技術を手にいれた中国がなぜその後停滞してしまうのか,ヨーロッパの小国に過ぎなかったイギリスが「産業革命」という鉄利用文明を達成できたのかという歴史の諸問題まで,間断なく説明してしまうのである。
一つの特殊な問題について突き詰めてゆくことで普遍的な真理に通じることができる,というのが私の基本的な考え方だが,本書はまさにその見本だと思う。
自分で書いたこの文章であるが,本からの直接引用がかなり多い。書評としてはこういう書き方はまずいんだけど,本書の内容にあまりに感動したためです。ご容赦のほどを。
(2005/05/18)
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