『ジハードとテロリズム』(佐々木良昭,PHP新書)


 私は「9.11」事件以後,さまざまなイスラム関係,原理主義活動,宗教紛争,民族紛争,宗教問題についての本を読んできたが,これはその中でも,最も鋭くイスラム原理主義とイスラム教の問題を分析した本だと思う。単に歴史的経緯とか政治的背景を論じるのでなく,イスラム教徒の歴史観,文明観から解きほぐしているため,論理と分析が非常に明晰だ。これまで自分の頭の中で何となく整理できなかった問題が,この本でかなりクリアにしてくれた。

 ちなみに著者はリビア大学でイスラム神学を専攻し,長年アラブ社会でアラブ人たちとともに暮らしてきた人で,イスラム教徒でもある。そういう人物がイスラム教,イスラム社会を内側と外側から分析しているのだが,イスラム教に対する分析が鋭いというか,ここまで書いちゃっていいの? と心配になるくらい,舌鋒鋭く分析し,イスラム教やイスラム教徒の欠点や弱点まで容赦なく抉り出しているのである。


 例えば現在,イスラム教教徒がテロ活動に参加している原因の一つが,イスラム教国の国の体制そのものにあると分析している。例えばイラクにしてもエジプトにしても,近代国家という意味では「国」ではない。部族社会がちょっと国らしくなった,という状態である。
 これは砂漠の中をオアシスを辿って旅して商売する,という生活パターンのためだ。砂漠の中の道には価値があるが(道をたどらないと次のオアシスにいけない),その途中の砂漠そのものには価値がない。だから国境を引く必要性もない。当然,部族ごとがまとまって生活し,その延長が現在のイラクであり他のイスラム国家だ。

 部族の長が国家の長になるわけだから,一族とか血族で国の体制を固める事になり,他の部族は蚊帳の外で,それが続けば当然,不満が募ってくる。その不公平を正そうとすると,今度は自分達の部族をまとめてクーデターを起こすしかない。要するに,社会正義としてのテロである。
 つまり,国家体制そのものがテロを生み出しているのである。


 また,イスラム教が生まれた土地の風土も影を落としている。イスラム教を含め一神教(ユダヤ教,キリスト教)は苛烈な砂漠の地,アラビア半島で誕生している。「荒野の宗教」と呼ばれる所以であり,貧困な土地で生まれた宗教だ。このような土地では他の部族のものを奪う事は生活の手段であり,当然それは宗教にも反映され,攻撃的性格を有する事になる。

 例えば,開祖ムハンマドは一時メッカを追われ,メジナに拠点を移したが,作物が取れる土地ではないから近くを通る隊商を襲っては略奪し,それで生活していた。略奪のための戦闘をムハンマドもしていたわけだ。
 一方,イスラム教はつまるところ「ムハンマドの行った通りに行動しよう,ムハンマドの言った事を守ろう」と言うのが教義の根本なのだから,ムハンマドの行った行為は正しい行為であり,略奪は正当な行為となってしまう。

 とここまで書いて,天草に行った時のことを思いだした。天草といえばもちろん隠れキリシタン,天草四郎の乱の天草だ。天草は山だらけの島であり,平地はほとんどない(実際に行ってみるとよくわかる)。田圃を作るのはすごく大変そうな土地である。しかし,天草藩主は厳しく年貢米を取りたて,領民の生活は困窮を極めていたという。
 そんな過酷な生活の中でキリスト教が伝わり,島民たちはこぞってイエスの教えを受け入れたのだという。過酷な土地ほど一神教を受け入れやすい,という一般的傾向があるのだろうか。
 いずれにしても,このような「荒野」で生まれた宗教には,ジャイナ教のような極端なまでに殺傷を禁止する教えは生まれてこないだろうと思うし,殺傷を戒めたとしてもそれは多分,限定条件付きの戒めにしかならないのではないだろうか。


 そして,イスラム社会の教育体制というか,教育の根本システム自体が問題をはらんでいる。

 イスラム社会での教育は暗記中心である。コーランは114章からなる膨大な書だが,それを10歳頃までに全部暗記する事が求められるし,それがイスラム教徒としての努めである。それだけでも大変なのに,ハーディス(ムハンマドの言行をまとめたもの)も丸暗記しなければいけない。これがまた半端じゃない量である。イスラム社会にとって学問とは暗記であり,信仰も暗記である。何しろ「コーランは神そのもの」なのだから,神の言葉は一時一句変えてもいけないし,間違えてもいけないのである。

 このような姿勢は他の分野の学問にも及び,哲学だろうが社会学だろうが,ある学者の説を丸暗記する事に没頭してしまうらしい。従って,何かを学ぶ時にも「なぜそうなったのか」には無頓着で,結果だけを覚えてしまうという。

 このあたりは,四書・五経・十三経を聖典として丸暗記させて試験を行った中国や李氏朝鮮の科挙のシステムと瓜二つである。中国でも李氏朝鮮でも学問は暗記する事であり,「なぜそのようになるのか,なぜそのような結果が導き出せるのか」という疑問を持つ事自体がタブーだったそうだ。
 そしてやがて,中国や李氏朝鮮が弱体化していくが,その原因の一つが,このような硬直化した学問体系,内向きの価値体系に凝り固まってしまったことだとされている。


 では,コーランやハーディスに載っていない問題に直面するとどうするかというと,自分で判断するのでなく誰かに判断を求める事になる。その「誰か」とは当然,宗教指導者だ。ところが,その宗教指導者もそういう教育しか受けておらず,著者によると,宗教指導者のほとんどは一般教養とか雑学に欠けているらしい。そのため,彼らの下す判断は極端から極端に走ってしまう傾向がある。
 しかし彼らの教え(指示)は絶対だから,それを鵜呑みにして行動してしまうイスラム教徒が生まれてしまうのは当然の成り行きだろう。

 とここまで書いて当然のように思いだすのが,日本のCDC原理主義者である。彼らによるとCDCの文章を疑うのは御法度で,丸暗記するのが美徳らしい。
 彼らの間では,「CDCのガイドラインだけど,ここはおかしいよね」という議論は決して生まれない。どうやら彼らにとって,CDCとは神の言葉,神が人間に与えたもうた聖典らしい。私は最初冗談だと思っていたが,どうも彼らは真剣らしいのである。

 そして,現在イラクでのテロ活動,抵抗活動に手を焼いているアメリカでも事情は同じだ,と著者は指摘している。アメリカのような若い社会では,はっきりした主張が好まれ,善悪に分けて判断するのが格好いいと考えてしまう。当然,原理とか原則に基づいて行動するグループが発生しやすいし,そのようなグループが人気を得る。このような風潮を受け,アメリカ国内のイスラム教徒はより原理主義的な思想を持つのだという。要するに,原理主義がはびこりやすいという点ではアメリカもイスラム原理主義も同じ穴のムジナなのである。


 そして,「荒野の民族」特有の歴史観,労働観という問題もある。

 日本は基本的に気候は穏やかで四季の移りかわりのメリハリがある。土地も肥えていて食糧は豊かだ。当然,働けば働くほど収穫が得られるため,労働と収穫が直結している。

 しかしアラブの世界では,真面目に畑を耕せば耕すほど土の水分が蒸発し,作物が実らなくなるらしい。また,もうすぐ収穫という時期に砂嵐が来ると一挙に全滅だ。努力しようと努力しまいと運がよければ収穫が得られ,運が悪ければ何も残らない。まさに「アラーの神の思し召し」である。だから「真面目に労働」という考えも定着しにくいらしい。


 このような社会では歴史そのものに対する認識も,日本とはかなり異なってくるのは当然だろう。日本人は縄文時代から現在までの歴史の流れは大体知っているし,古墳時代,平安時代,江戸時代の順序を間違える事もないだろう(・・・たぶん)

 しかし,砂漠の中でくる年もくる年も収穫はわずかで,忘れた頃,数10年に一度の大豊作がやってくる・・・という生活が続くと,人間は悪い状態に慣れっこになり,記憶から排除してしまうらしい。そして覚えているのは大昔の豊穣の年の強烈な想い出だけとなってしまう(・・・当然だろうなぁ)

 本書にも取り上げられているが,レバノン大学の教授が学生に歴史認識をアンケートしたところ,強烈な印象がある出来事(ムハンマドに神の啓示があったとか,メッカを追われてメジナに向かったとか)ほど最近の出来事として認識しているらしいのだ。要するに日本人のように「いい国作ろう鎌倉幕府(1192年)」と「鳴くようぐいす平安京(794年)」だから前者の方が後の時代である,という歴史認識ではないのである。要するに,時間軸の考え方がまったく異なっているのだ。

 こういうことを書くと,だからイスラム教徒は遅れているんだとか,教養がないからテロに走るんだと思う人もいるかもしれないが,それは的外れである。
 たとえば日本では水はいくらでも天から降ってくるから,困ったことがあると「水に流せばいい」と考えるし,「湯水のごとく浪費する」という言い方もある。多くの日本人にとって,雨は天から勝手にいくらでも降ってくるものであり,発想しか浮かばないはずだ。
 しかし一方,アラブの世界では水は貴重品である。少ない水を家畜と分かち合わないと共倒れになってしまう。恐らく彼らにとって,水とは天から勝手に降ってくるものではなく,神がご加護によって与えてくれるものなのではないだろうか。
 歴史認識というのもつまるところ,そのような生活感覚の延長であろう。


 このような歴史認識を持ってしまうと,「イスラムの栄光の時代といえばムハンマドの時代。あの頃,イスラム文明(数学,化学など)は世界の最先端だった。あの頃の栄光を今のイスラム社会が失ってしまったのは,ムハンマドのような篤い信仰心を我々が持っていないからだ。あの頃の時代に戻れば,この地はまた楽園になるはずだ」と考え,それを実行しようとしても無理がないことになる。ジハードに命を賭けるのはムハンマドが命がけで神の教えを伝えたのと同じことであり,神の教えだ,と考えるのは当然の事だろう。だって,そういう価値観,歴史観しか持ち得なかったのだから・・・。

 日本では「天武天皇の時代に戻ろう」とか「大化の改新の頃がよかった」なんて発想は絶対にでないが(何しろ大昔過ぎて戻ろうにも戻れないことは誰だって知っているし,第一,大化の改新なんて現在の生活とはまったく無関係である),どうも砂漠のイスラム教徒にとってはムハンマドの時代(大化の改新と同時代)はつい先日の出来事なのである。


 このように見てくると,「貧しいからテロに走る連中が出るのであって,豊かな社会になればテロがなくなるはずだ」とか,「未開な部族国家を倒して民主主義国家にすればイラク国民は幸せになるはずだ」とか,「フセインが倒れたのだから安全で平等な国になるはずだ」とか,「ビン・ラーデンとザワーヒリさえ殺せばイスラム過激派のテロはなくなるはずだ」なんて議論が机上の空論,砂上の楼閣,絵に描いた餅である事がよくわかる。

 ブッシュ@アメリカ大統領が考えるほどテロ問題は単純でも簡単でもないのである。文化が異なっている,歴史的背景が異なっているということをまず認めない限り,問題は解決しない。相手に自分の文化や価値観を押し付けてそれで問題解決しようとするのが,もっとも愚かな態度である。

(2004/12/07)

 

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