私は音楽はクラシック音楽から入った。父親がクラシック音楽好きだった事が原因だが,6歳の頃からピアノを習い始めた事もあり,音楽と言えばクラシック音楽であり,ベートーヴェンやショパンが何より耳に馴染んでいた。
その後,いろいろな音楽を聞くようになるのだが,ある時,琴の合奏を聞いていて「これが合奏だろうか?」と思ってしまった。大勢で同じメロディーを同じように演奏していたからのである。それまでの私の意識としては,二人以上で演奏する時は,別々のパートを演奏するものだと思っていたし,それが音楽だと思っていた。ピアノ左右の手は別々に弾いてこそピアノ曲であり,左右で同じ音を弾いてもそれはピアノ曲ではないからである。
だが,この「琴の合奏」にはそういう概念が通用しないのである。皆で同じメロディーを演奏して,それが「合奏」なのである。
そういえば,小学校でも中学校でも校歌は「斉唱(全員で一斉に同じメロディーを歌う)」だったし,応援歌もそうだったし,相撲甚句も斉唱だ。どうも日本人にとって歌は一人で歌う(民謡がそうだろう)か,みんなで斉唱するかのどちらかになってしまうような気がするが,どうだろうか。
もちろん,ヨーロッパ音楽にも斉唱がある。グレゴリオ聖歌である。何しろ8世紀頃に編纂されたと言われる代物だから,最もシンプルに皆で同じメロディーで歌うのは当然の様式だろう。そういえば,仏教の声明も単旋律の斉唱だから同じようなものかもしれない。
しかし私の知っている限り,13世紀以降のヨーロッパ音楽は複旋律,和音化の方向に進み,「単旋律の斉唱」スタイルはほとんど姿を消した・・・はずだった。
ところが,20世紀の音楽でこの「単旋律の斉唱」を実に効果的に,これしかない,という場面で使っている名曲がある。マーラーの『交響曲第2番 復活』だ。一番最初にこの部分を聞いた時は,本当に鳥肌が立った(ちなみに,こういう「鳥肌が立つ」の使い方は誤用です・・・判っているなら使うなよ!)。その静かな迫力に圧倒された。
『復活』は演奏時間90分,大編成のオーケストラと大合唱,独唱を要する大曲であり,大雑把に言えば「死と復活」をテーマにした曲だと思う。件(くだん)の「単旋律の斉唱」は第6楽章(最終楽章)の後半部分に登場する。この楽章には狂乱と祈りが交錯している。そして,自暴自棄とも思えるエネルギーの噴出のあと,混乱の中で暗闇に沈み,一旦,虚無の中に沈み込む。崩壊と死の沈黙が続く。
だが,音楽はその絶望の廃墟から蘇る。闇と沈黙の奥底から,低く,弱く,「復活」の歌声が聞こえてくるのだ。大合唱団の男声パートが,声をひそめ,囁くように最弱音で一つのメロディーを斉唱する。それはまるで地の底から聞こえてくるかのようにかすかであり,耳をそばだてなければ聞こえない。だが大人数の人間が囁く歌声はひたむきであり求心的であり,強い緊張感に満ちている。あらゆる装飾的なものを剥ぎ取った原初の祈りがそこにある。
死の静寂の中から蘇った「復活」のテーマは次第に力を得て,力強さを増す。そして圧倒的な生の喜びを歌い上げ,壮麗で巨大なクライマックスを迎える。
死から生が復活する事はありえない。キリスト教原理主義者でもない限り,そんな御伽噺を信じる人はいないだろう。
だが人間の精神はどんな絶望からも復活できる。生きている限り,意思がある限り,必ず復活する。この曲はそう歌い上げている。
(2004/07/20)
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