聖徳太子は日本史上最も有名な架空の人物である,というのが,学会や研究者の間ではほぼ常識となっているらしい。聖徳太子の実在を証明するとされてきた資料を巡っての論争も,既に決着がついているらしい。聖徳太子を実在とする証拠はどこにもないらしい。
ところが,一般的に言えば聖徳太子といえば「旧一万円札」の聖徳太子であり,十七条憲法の聖徳太子であり,一度に10人の訴えごとを聞き分けた聖徳太子である。恐らく聖徳太子の顔を知らない日本人はいないはずだ。それほど親しまれている(?)聖徳太子がいなかったなんて,本当なんだろうか。
この本は,そのような聖徳太子伝説について一般向けに書かれたものである。
まず,聖徳太子についてどんな事をご存知だろうか。生まれた時にすぐに言葉を発した天才児として生まれ,幼児期に既に高僧の悟りに達し,10人の訴えを同時に聞いて,それぞれに的確な判決を行い,未来の出来事を予言し,仏教と儒教を短期間で学んでそれぞれの極意に達し,十七条の憲法を作り・・・という具合で,とんでもないスーパーマンぶりである。
日本書紀にはこのように,彼の業績がこれでもか,これでもかと書かれている。
これを見て,さすがは聖徳太子と考えるか,何となく変だなと疑うかが別れ道である。もちろん常識的に考えれば,こういう人間がいるわけがない。荒唐無稽以外の何物でもない。
これが中国だったら,「白髪三千丈だからしょうがないよね」と眉に唾をつけるところだが,何しろ相手は皇室指定図書である『日本書紀』である。文句をつけるならよほど根拠のある文句でなければ相手にされない。
聖徳太子に言及している資料といえば日本書紀であり,法隆寺の釈迦三尊像と蔵書である。しかし,日本書紀であれほど詳細に聖徳太子の活躍が書かれているのに,そのちょっと前に完成したといわれている古事記にはほとんど言及されていない。別に,古事記に全ての事が書かれている必要はないのだが,憲法まで発案・策定するほどの大人物に言及していないのはやはり不自然である。
というわけで,聖徳太子を巡って様々な研究が行われてきて,その結果,聖徳太子はある目的のために作り上げ,祭り上げられた人物だろうと考えられるようになった。
要するに,天皇の長子という申し分のない血統に生まれ,生まれながらにして天才で,仏教も儒教も頂点を極め,歌を作る能力も抜群,政治的な調整力にも優れ,慈愛に満ち,憲法を作るほどの立法能力を持ち,それでいて信仰厚い・・・というスーパースターがいたんだよ,こういうスーパーマンが生まれるのが天皇家なんだよ,こういう皇太子が現天皇の後を継ぐんだよ,ということを天皇家と血の繋がっている連中に教育し,天皇家に対してクーデターなんて考えるんじゃないよ,と諦めさせるために必要だったのだ。
そして,このような小細工を必要とするのは誰かというと,武力によってクーデターを起こし,天皇の地位についた人物である。このクーデターが壬申の乱であり,即位したのが天武天皇。自分がしたことを自分の子孫にされてはたまらない。自分がしたようにクーデターを起こされて政権を奪われるのに忍びない。できれば自分の子供に地位を受け継いで欲しい。
なら,クーデターを起こそうなんていう不埒な連中(・・・こういうのを「自分の事を棚にあげる」っていうんだな)を黙らせるために,自分の氏素性の正当性を示すために作らせたのが日本書紀だったという。この本の著者も指摘しているが,正当性を主張するためには血筋の正統性を言うのが近道である。だから,日本書紀にしろ,新約聖書にしろ,旧約聖書にしろ,その冒頭にはうんざりするほど延々と,家系図,血統図が書かれている。洋の東西を問わず,同じ事を思いつくものである。
当時は皇太子という言葉もなければ意識もなく,当然,天皇の後は皇太子が継ぐ,という決まりもなかった。だからこそ,「かつて存在したスーパーマン・皇太子」の存在を作り上げる必要があったらしい。これは非常にわかりやすいし,理解し易いと思う。少なくとも,生まれながらにしゃべった赤ん坊の存在を信じるくらいなら,陰謀を巡らして架空の人物をでっち上げる連中の存在を信じる方が納得できる。
そしてこの本で面白いのが,行間の背後にある著者の膨大な知識であるとともに,歯切れの良い罵倒であり,比喩の見事さだ。もうこれは至芸といっていいと思う。例えばこんな部分だ。
「ウソにも大いなる腕前が要る。・・・しかし,架空のハナシをつくる人の宿命は,どれほど綺麗に塗りあげても,まだ加工が足りぬのではないかと不安になることで,これでもかこれでもかと,衣装の重ね着と厚塗りに走るから,つい,やりすぎ,そこから自然にほころびが生じる。」
「危険な牌を捨てながら,そっとあたりを見渡す,あの気分なのかもしれない。」
「ご自宅は人目がありますから別宅へ,とことわって,うしろぐらい物を届ける呼吸に似ている。」
「大和古寺のほとんどは,名称の拠り所が具体的だ。東大寺は立地,唐招提寺は建立の由来,薬師寺は本尊。それに引き換え法隆寺は猛々しく自尊の構え。なんてあつかましい名前や。我が寺においてこそ,仏法が興隆におもむくのであるぞよ,とでも言いたいのか。」
もう,当たるを幸い,バサバサと一刀両断の気配である。実に切れ味がよく,小気味いいくらいだ。
あるいは,
中国の官界政界を左右する制度は科挙。科挙の標準テキストは四書五経と十三経。もしもテキストの文句を一見一句でも動かそうものなら,国をあげての大騒ぎになる。ゆえに科挙が続いている間,学者が古典の本文を検討する事は絶対に許されなかった。批判精神を学問に生かせないために,博覧強記連想飛躍宏識麗筆を競うしかない。なんてところも,大いに納得。これはキリスト教の聖書でもイスラム教の聖書でも同じであり,聖書にしてもコーランにしても,何が書いてあるかという解釈学はあっても,なぜそう書いてあるのか,書いてある内容は正しいのか,誰が作ったのかという研究は成立する余地がないのである。
確か20年ほど前にエジプトで,コーランはどのようにして成立したかという研究論文を発表したカイロ大学の歴史学教授がいたが,彼は原理主義者に暗殺されてしまった。要するに,触れてはならないタブーについて研究したために殺されたのだ。
同様に,現代アメリカでも人工妊娠中絶をした産婦人科医が何人も射殺されている。これはもちろん,聖書の言葉に反する行為をしてしまったからだ。聖書に書いていないことをしている人間なら平然と殺せる敬虔なキリスト教信者がいるのである。この国の大統領が「悪に対する十字軍」という言葉を発するのは,実はごく自然なのである。
とまぁ,この本の内容の確かさ,文章の見事さは絶賛するが,手放しで賞賛するわけではない。この本の欠点は,書かれている内容を全て理解するために,かなりの基礎知識を必要とするのだ。つまり,「聖徳太子について多少の知識は持っていて,本のタイトルに惹かれて購入した」というレベルの読者(私もその一人です)には不親切というか,判りにくい表現が多すぎるのだ。
例えば,冒頭,聖徳太子が中国の髄皇帝に宛てたとされる国書「日出ズル処ノ天子,書ヲ日没スル処ノ天子ニ到ス,ツツガナキヤ」を引用して,これが日本のいかなる書にも記載されていない,と言及し,ついで「手紙なんだから始めは敬白である」とか,「天皇でない太子(=聖徳太子)が太子として国書を出しますか?」とたたみかけるのだけれど,通常レベルの知識しかない読み手は「この人,何を言おうとしているんだろう」と戸惑うばかりだと思う。
この本は万事この調子で,よほどの聖徳太子マニア,日本古代史マニアでなければ,何が書いてあるかよくわからない文章が多すぎるのである。書き手にとっては「そんなことは常識だろう?」と思われることでも,読み手側にはチンプンカンプン,ということだらけである。
これが「歴史研究」などの専門雑誌に掲載されたエッセイなら,私も文句は言わない。だって,専門雑誌を読むということは,前提となる知識を持っているということと同義だから・・・。医学専門雑誌に「語句の説明」がないのと同じ。医学知識がない人が読むことをそもそも想定していないのであるから当然である。
しかし,新潮新書は歴史の専門書ではないし,歴史の専門家を対象とした本でもない。であれば,素人でも内容を理解できるような書き方にするか,脚注をつけるべきであろう。
この点にだけは注文をつけたい。
(2004/04/30)
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